1985年 1月−12月

機種の見直し(1985年12月2日)

 「うちには○○社製の△△型コンピューターが入っています」という口上をいまだに耳にすることがある。既に、コンピューターは、ハードウエアそれ自体ではどのように慶れた性能を持つていたとしても何の利用価値もないということが周知の事実になっているはずなのに。
 コンピューターは処理の目的に応じたソフトウエアが必要である。かつて、必要なソフトウエアは全て自前で開発しなければコンピューターを使うことができない時代があり、まず、何年もかけてソフトウエア開発を行って、ようやく高価なコンピューターを使用していた。コンピューターが高価であったから、手早くソフトウエァを開発しなければ、いつまでも実用にならない機械を抱えることになる。いきおい開発要員を大量に組織してソフトウエア開発を行ってきた。ところが、ソフトウエア開発にはなかなか終わりがこない。次から次へと不具合や、「そこまでできるのならこれも」といつた類の新たな注文がでて、追加変更璽に追われる。ソフトウエアというものは、規模が大きくなるにつれて、いわゆる保守費用が膨大にかかることが分かつてくる。規模の大きさに伴って幾何級数的に保守費用が増大する。
 「一体電算部は何をやつているのだ」という声が社内のあちこちから上がる。担当者はただひたすら頑張る。頑張るが仲々そういうものだということを社内に説明し得ない。もともとプログラムのパグは自らが犯したものであり、社内の他の部署の人に、いいわけがましいことを言っても始まらないという気持が生じ、「本来ソフトウエアというものはそういうものなのだ」ということを説明することは難しいことなのである。
 「どうもうちのコンピューターはうまく動いていないようだ」という感じを持つ上層部の人が居ても、正式に役員会の議題にとり上ける場合は少ない。あんなに一生懸命やっているのだからという気持もあるし、本当はどうなのかが今一つ分からないことが原因で、コンピューターに関する発言は差しひかえてしまう。自分が分からないということを人前にさらすことが恥しいという理由もある。うやむやのうちに何年も経ってしまう。次第によその会社は次から次へと成果を上げているのに我が社はどうしてうまくゆかないのかというあせりが次第に積もり積もってくる。
 そのうち、自社開発のソフトウエアの使用を続ける限り、泥沼から抜け出せないのではないかという疑問が生じ始め、市販のパッケージの購入を検討したり、他社との共同開発を考えるようになる。自画自讃のソフトウエアは、次第に利用価値を失ってゆく。
 数学科や情報工学科の若い人を採用して、自社開発のソフトウエアに力を入れるよりも、市販のソフトウエアの利用者としての立場を守った方が、はるかに効率が良いと気づく企業が多くなってきた。
 ついでのことに、社内のコンピューターの機種そのものの見直しも必要な時期が来ている。いたずらに大型機の導入を競う時代から、最も効率の良い導入方法は何かという、素朴な判断をもう一度行う時期に来ているのである。

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本格的なCADシステム(1985年11月1日)

 ー六ビットパソコンはことによるとコンピューターの利用法に大変革をもたらすかも知れない。既に大変革が起こりつつあり、その兆候が随所に見られる。
 パソコン本体そのものは一六ビットアーキテクチャアの制約を依然として抱えたままであるが、周辺のシステムメーカーの手になるちょっとしたアイデア商品が続々と発売されるようになり、それらを上手に組み含わせると、とてもパソコンとは思えないシステムを作り上げることができる。
 例えば、歪みや温度を計測するセンサーからのデータを取り込んでコンピューターに貯えるためのA/Dコンバーターは16チャンネル用のボードが一枚十万円程度の価格で市販されており、これをパソコン本体の増設用スロツトに差し込むだけで実時間計測システムを作ることができる。もちろんソフトウエアが必要であるが、これもベーシックという極めて作成するのに容易な言語によって開発することが可能であるから、従来ミニコンピューターなどを利用した実験計測用のシステムを開発するのに比して開発コストも開発期間も飛躍的に向上されることが可能になる。
 近頃は更にメモリーの価格が下がり、現在最もパソコン用に普及している一ドライブ当たり一メガバイトのフロッピーディスクを二ドライブそっくり置換の可能なLSIメモリーが、十数万円で市販されている。これを利用することにより、パソコンの一つの欠点とされていた計算スピードの遅さをカバーできる可能性ができ、計算速度そのものに関しては、従来から関数計算用の高速処理装置が市販されていて、これを用いれば、計算部分の速度を向上させることが可能であった。しかし、フロッピーディスクと主メモリー装置との間のデータのやり取りに関してはなかばお手上げの状態であり、そのために「パソコンはとても処理速度が遅くて使いものにならない」といわれていた。そのようなパソコンの限界を大容量LSIメモリーの利用によって解決することができれば、いよいよ本恪的なCADシステムの構築も可能になる。
 商用コンピューターがわが国の建設業界に導入されてから既に二十五年の歳月を径経たが、ようやくにして利用者が経済的にも十分に採算に合うコンピューターが登場したことになる。これからが本格的なコンピューターの応用を考える時代である。
 パソコンは、本体を作るメーカーが必ずしもその関連する全てを供給するわけではなく、むしろ周辺のさまさまな装置を販売する中小のシステムメーカーの活躍に依存する要素が極めて大きい。従ってパソコン本体の機種選択は、周辺産業のサポート状況をよく見極める必要があり、そうでない機種を選ぶと、先にあげたボードー枚の価格が数倍、場合によっては十倍以上もかかってしまうことになる。
 パソコンは有名ブランドのものが必ずしも売れているとは限らない。利用者自身の利用目的に合わせた機種をそのつど選択すべきである。その時研究し苦労した過程が次の時代の糧となることはもあらゆる物事に共通する真理であろう。

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一貫設計プ口グラムに危惧(1985年10月1日)

 パソコンの能力が次第に向上し、一貫設計がパソコンでも可能になろうとしている。既に建築の構造設計の分野では、建設省自らがプログラム評定制度をパソコンの分野にまで拡張し、あたかも設計の自動化を奨励しているかのような印象を与える。評定制度は、本来建築確認業務の事務合理化の一環として、行政側の要望が強かったと説明されている。
確認という業務は、確かに大変な作業だと思う。一応申請書類に関しては書式があるが、細部の設計図書については設計事務所にまかされており、特に、構造計算書については、細かい数値の操作が多いので、担当官がチェックを行う作業量も尨大である。構造に馴れない担当官の中には、全ての数字を実際に追ってみてチェックすることもある。計算尺や電卓を用いて作成した計算書は、途中に計算の間違いや、数字の誤記を犯していることもある。そのような個所に赤を入れながら計算を進めて行くと、ある部分から以降で、当初の数値の問違いの影響が無くなつていることに気付く。つまり、構造計算書には随所に数字の丸めや、材料の規格による安全サイドヘの数値の置き換えが行われ、途中の些細な間違いを吸収してしまう安全弁が存在する。手馴れた設計者は計算以前に配筋を決めることができる。そのような設計者は、途中の数字の間違いをそれ程気にしない。
 パソコンは細かい数値計算の誤りは犯さない。しかし、反面外から見た場合、ブログラムが正しいか否かの検証が難しい。だからブログラムを一度徹底的に検査して、国が検査証明を発行し、担当官は検査証明付きのプログラムを使った計算書は、入力データのチェックだけすれば良いようにしようという制度がプログラム評定制度である。
 現在パソコンのプログラム評定は、一貫設計プログラムについての評定を受け付けるということになっている。既に評定済みのプログラムは十指に達している。問題は利用者の質であろう。一貫設計フログラムは入力データの量が極めて多い。従って実務上は、入力専門の入力職ともいうべき人材を養成してその作業に当たらせる。後は極めて機械的に計算書が打ち出される。構造に手馴れた設計者は、容易にその出力を読みとり、設計図面を作成する時に適当にアレンジして部材をまとめる等の作業を行う。構造を知らない設計者でも出力された通りに図面を起こすことができる。その差はどのようなところに出るのだろうか。建物の安全に差は出ないのだらうか。
 最も恐しい事態は、誰も構造的な安全性という角度から設計図書を眺めなくても、事務的な手続きが完備していれば、あたかも構造的に安全であるかのように取り扱われてしまうことであろう。
 コンピューターはまだそれほど信頼性の高い道具ではない。いつどこで誤動作が生ずるか、或いは、入カ職のミスがあったかどうか。更にモテル化当たっての問顎はなかったか否か。技術問題の重要性が、事務手続きの影にかくされてしまうことは極めて危険なことである。ましてや、構造技術そのものも未解決の問題が多いのだから。

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建築教育にコンピューター(1985年9月2日)

 パソコンの普及によって、建設業界の日常業務に、コンピューターが深くしかも広くかかわり合うに至り、コンピューター処理を前提とした処理方法が次第に浸透している。
 しかし使われているシステムの多くは、建築の素養を持たない人々により開発され、運用されており、建築の専門教育を受けた人々は、むしろコンピューターを避けて通ろうとする傾向さえ見られる。その原因の一つは、過去にコンピューターを勉強する機会が得られず、この歳になって今さら勉強を始めてもという、いわれのない恐怖感に基づく心理的な要素を挙げることができる。
 建築という極めて広範な分野に亘る知識を必要とする特殊な工学に携われる人々は、近年専門が細分化され、他の専門分野にまで広い知識をなかなか身に付けることが難しくなっている。設計、施工というような大まかな分類が、意匠、構造、設備に専門化し、更に住宅、事務所、ホテル、病院といった建築の対象によっても専門の分化が進んでいる。このような専門分化の傾向に伴って建築の中にコンピューターの専門家が出ても別におかしくはない。
 経理の問題は経理の専門家、コンピューターの問題はコンピューターの専門家という、簡単な割り切りが、パソコンの出現によって次第に通じにくくなつている。コンピューターがパソコンによって建築のそれぞれの専門家にとっての共通の道具になってきたからである。
 既存の道具に対する改良や新しい道具の考案は、真にその道具の必要性を日常業務の処理形態の中から痛感するものでなければ発想し得ない。現在使用されているコンピューターシステムは、他の工学分野、例えぱ航空工学、造船、機械といったものの処理を対象として研究されたシステムを、建築に応用してみようという、コンピューター屋の発想に、建築家が乗っているに過ぎない。ちょっと見には応用可能な技術が、いざ実用の段階に入ると利用可能な材料の種類の多さと多様な利用目的によって、おいそれとは転用がきかないことが分かる。航空機における部品点数は確かに一機当たり数千点から一万点を超す尨大な部品によって構成されるが、同じモデルの飛行機が何百機も製造される。
 建築は常に一品生産であり、他の建物との部品の共通化は簡単ではない。更にサッシーつをとってみても大きさも種類も多く、常に使用されている型とサイズの組み合わせはたちまち数千点に達する。建築用のシステムは、独自に作り上げる必要があるわけで、建築の専門家の手によって構築されるべきものなのである。
 そろそろ、建築の専門教育の中に、コンピューターの基礎的な知識を、単にプログラム技術を学ぶといった程度のお座なりな教育ではなく建築家が身につけるべき素養のーつとして取り上げる時期が来ているように思う。毎年数万人の卒業生を出しているのだから、そのうちの何%かの学生は終生をかけて建築家のための道具造りに専念してもよさそうである。現在の建築家とシステム造りをする建築家の他に、コンピューターの専門家が必要か否かは状況によって異なると思うが、なまじの専門家なら必要はない。専門家として頼るに足る技術と見識を持ち合わせている専門家なら大いに頼りがいがある。建築の教育の中にコンピューター教育を取り入れ、コンピューターを前提とした処理方式を、建築家自身の手によって考案し、作り上げることができるようになれば、既製のシステムを見る眼も、コンピューター専門家の技量を見極めることも可能になると思う。

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建設CAD大同団結に期待 (1985年8月1日)

 建設業が数社合同でCAD用データベースを作成し、これを共有しようという計画が発表された。いずれもそうそうたる大手・中堅の建設業で、従来この種の共同事業に見られるような資本系列や銀行の仲介するものではなく、同種のCAD用ソフトウエアを利用するグループというところが珍しい。
 CADシステムは、時代に乗り遅れては大変ということで、いっとき建設業はわれもわれもという勢いで導入した。はなばなしく導入した後、CADの実績の報告をほとんど耳にしないのは、原因を挙げればいろいろと数え上げることができようが、設計の資料として重要な位置付けとなっているカタログ類とCADシステムが結びついていないことが大きな要因である。どこの設計事務所にも見られるようにうず高く積まれたカタログ類の中から、個々の対象に最適な材料を選び、決定してゆくプロセスが、設計者にとって大変重要な仕事であり、手元に資料のない材料は選びようがない。
 CADで図面が描ける。描きたい図面の情報をどのようにしてCADシステムに与え、システム側から設計者に図面を描いて見せてくれるのか。図面を見て、再び思考し、修正する。その繰り返しの中から設計者の頭の中に対象の建築物が次第に形づくられてゆく。設計者にとって図面は、設計するために描くのでありも設計された結果を表現するのは最終のプロセスなのである。CADシステムを見て、なんとなく違和感を感ずるのは、CADシステムが単に最終決果を表現しさえすれば、システムとして完成しているかのごとき主張をするからである。システムそのものの能力が現段階では極めて未熟であり、最終結果の表現が精一杯の可能な機能の限界であることは、意外にも一般に理解されていない。あまつさえ、そのためのデータの投入に恐るべき大量の労力を必要とする。
 CADシステムが極めて高価であるために、能力が高いと錯覚する。錯覚が事実と誤解され一般に広まる。そのような現状から、一歩でも前進するためには、少なくとも設計資料のほんの一部でもよいからデータベース化し、CADシステムと連動させる工夫が必要である。一人こつこつと研究することは大切である。しかし、同好の志が相寄り、互いに刺激を与えつつ共同でシステムのレベルアップを図ることは、単に一人より数人という数の比率以上の効果がある。
 CADシステムそのものが未完成であることを、メーカーはあまり理解していない。むしろこれまで払ってきた努力の大きさを主張するが、システムが建築の設計者にとって不向きであり、今後に問題がより多く残されていることをなかなか理解しようとしない。そのようなメーカに一種の圧力をかけるためにも、利用者が結集し実用化のために、まともに取り組むことが必要なのである。単なるメーカー主催の普及活動の一環としでのユーザー会でなく、既に導入してしまったCADシステムを踏み台にして、真に設計者のツールになり得るCADシステムを作り上けるために。
 データベースの構築には時間がかかる。決して急ぐことなく着実な成果を期待したい。

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パソコンCADへの取組み(1985年7月1日)

 このところ一段とパソコンヘの期待が高まっている。パソコンCADへの期待というべきかも知れない。月十万以下のりース料で業務のなにがしかの足しになるとすれば、人一人雇うよりはという気持ちからパソコンCADシステムに目を向ける。
 CADシステムを販売する人は多い。パソコンのディスプレイにきれいな絵を画かせ、あたかもそのシステムが一台あれば、かなり沢山の設計ができてしまうような印象を与える。そして見る人をそのシステムを買い度い衝動にかりたてさせる。そのシステムを顧客に見せ、目の前で顧客の望む設計をして見せたいと考える。
 建築の設計技術者が一人前に育つまでのプロセスを考えてみる時、その間に蓄えた知識の量を表現することは極めて難しい。具体的にどの本の何頁とか、どのカタログとか、師匠のどの設計の何とかと内容になると本人ですら思い出すことができない。外から仕込んだ知識と、その人のもつ感性とが相乗的な効果を発揮した時、人は驚異的な知識の吸収能力を発揮する。
 「基本パターンをコンピューターにおぼえさせれば、というような表現がよく用いられるが、一人の設計者が日常的に利用している基本パターンの数を深刻に数え上げた人は未だ居ない。しかも基本パターンを図として所持している人はほとんど居ない。皆漠然と頭の中に入っている。何かの拍子に思い出すわけで、きれいに整頓されているわけではない。
 現代のコンピューターは、まだまだ人と比較できるようなものではない。昔、ブルドーザーが建設現場に姿を現した当時、トロッコと効率の比較をされて、見事に敗退した時期があった。なる程、稼働している時は相当の効率を発揮するが、いかにも故障が多い。故障するのを待ち受けている修理工をひかえさせながら、それでも次第に改善されて、いつのまにか建設現場からトコッコは姿を消した。ふり返ってみると既に三十年以上もの歳月が過さており、ブルドーザーとトロッコの効率を比較しようなどと考える人が居たこと自体が信じられない。
 CADシステムが三十五年前のブルドーザーの域に達じたか否かの判断の問題である。大きな違いが何点かある。その第一は運用できるようになるまでに長い期間を必要とすることである。第二は折角覚えた運用技術は、別のメー力ーのCADシステムを使う時にほとんど役に立たないという点である。第三点は導入して運用をはじめても、採算面での効用は上がらないということである。CADシステムを導入し、将来の方法論を研究するために、現時点で苦労を重ねることは大いに賛成できるし、勉強するなら今が最も良い時期であるとも思う。しかし、商品として完成されたシステムであるとはとても思えない。また、建築設計という仕事が、それ程単純な仕事とも思えない。コンピューターに躾をほどこし、設計者の手足として役立つように育てるには、人一人育てるよりもはるかに大きな努力をはらう必要があるということを、設計者自身が認識し、その上でCADシステムに取組むべきであろう。

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ブームのAIとEWS (1985年6月3日)

 最近、新聞や雑誌などでAI(人工知能)とかEWS(エンジニアリング・ワークステーション)の記事が目につくようになった。
 米国におけるAIの歴史は古い。錬金術と同様に、人類の夢の一つとして取り組まれてきたものであり、コンピューターの発売以前からのテーマであった。たまたまコンピューターが、AIの素材になり得るかも知れないということで脚光を浴び始めてきたが、本来はより深い哲学とも呼べる思想に基づいているものである。
 AIの幅は広く奥は深い。自分に代わって物事を考えてくれる物がAIの正体であるが、これを想う人は、もしそのような物が出現した時、自分自身は一体何をしていればよいかは考えない。哲学というものはそうしたものなのであろう。
 今、わが国においてAIともてはやされている対象は、あくまでもビジネスとして成立するものであり、研究の対象も極く狭い。コンピューターの次はパソコンでその次はAIという程度で、どうも騒き過きの感が強い。
 建設における知能は、極めて長い歴史の上に成り立っている。近代以降の構造物と、それ以前のものとの間に本質的な差違はない。むしろ、近代以降の構造物には、歴史を経た強さと実績がなく、それに比べて歴史的な構造物は数々の試練に耐えた強さがあり、美しさがある。戦国時代に構築された数々の城郭、石垣積みの手法はどのようにして考案され、どのように継承されたのだろうか。再現するには材料の調達が必要になるし、仮に、再現が成ったとしても、かつての名城を凌ぐ構造になろうとは思えない。当時に比し、現代は材料の開発に伴う変化が著しい。建材の製法も変化している。玉石混交というが、これらの変化は、必ずしも良いものばかりが市場に出されるわけではなく悪い素材も時として現れる。良否の判断は難しい。結論には時間を要する場合が多い。
 問題を建設に限つても、今は専門分野が極めて多岐にわたっており、それぞれの専門家を助けるためのシステムの構築が先決である。
 その意味ではEWSと呼ばれる技術者の使うべき、コンピューターやデータベースに対する操作用の小型コンピューターは比較的実現の可能性が高い。但し、この場合は完成した後、技術者自身がEWSをどのように使って仕事をしているか、今から明確な予測がついていなければならない。自分自身にかわるものではなくて、自分のために働くものであり、それに伴って、自身は現在よりも更に一段と忙しくなるという性質のものである。
 技術者の使う機械か、技術者にかわる機械かの差は、当の技術者にとっては死活問題である。経営者にとっての重大な関心事でもあろう。EWSを使って良い仕事をして、これが企業採算に良い結果をもたらす。そのようなEWSの開発は、コンピューターメーカーが行えるはずのものではなく、利用者が自ら一つ一つ築き上げるべきものである。現在持っている知識の実体が何かを見極め、不足している情報をどのような手段で収集するか。そのようにして築き上げたEWSは他社のものとは明らかに異なるものである。画一的なEWSなどは意味がないと知るべきである。

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ボイスメールボックス (1985年5月1日)

 日本ボイスメール株式会社という会社が発足した。ポイスメールというのは一口にいえば留守番電話とコンピューターを組み合わせたもので、人の声をデジタル化してコンピューターに蓄積する装置である。
 情報化社会の到来といわれながら、またまだ時代にそぐわないような行動を強いられることが多い。相手に電話をした時、その人が留守で後刻その相手から電話が入った時に、逆にこちらが出先であったというようなことが、頻繁に生ずる。お互い忙しくしている人が出先から連絡をとりあいたい時、イライラさせられる経験も多い。また、事務所で精神を集した仕事をしている時に、電話で中断させられることもしばしばである。
 情報という目方で計れないものが、人間の行動の決定に際して、きわめて重大な位置にあることは、古来から知られており、うまく活用した皆が時を制してきた。情報の活用の難しさは、多ければ多い程良いというものではなく、必要な情報のみをいかに素早く選択するかという能力が問題である。そのためには簡潔に用件を伝える訓練も大切である。
 留守番電話というもののイメージは従来あまり良くなかった。何か貧乏くさい。電話をした時、相手が留守で留守番電話が鳴り始めると用件を吹き込まないで電話を切ってしまう人が多い。せめて名前だけでも吹き込んでおいてくれれば、と思ったことが、設置した経験のある人には多いと思う。相手との会話を期待した人は、留守だったということでまず期待を裏切られ、そのことに腹を立て、つい留守番電話に当たるような心理状態になるのかも知れない。ボイスメールは、相手がいないことを前提として電話をかける。相手は、都合の良い時に返事をしておいてくれる。会話を楽しむことは無理だが、用件を確実に相手に伝え、返事を受け取るにはきわめて都合が良い。双方が出先であつても一向に差し支えないし、一方が海外であってもかまわない。完全に距離を埋め、時間を有効に利用することが可能になる。電話網という仕組みがある。ぐづついている空を見上げながら電話網からの連絡を待つ気持は何ともいえない。こちらから電話をかければ、相手からの電話を受けられなくなってしまう。そのような時、ボイスメールは電話網の各人のボックスに瞬時に転送してしまう。同じ声をそのまま転送するので、途中で間違う心配はない。
 コンピューターはすでに新しい機械とはいえないし、留守番電話も決して新しくはない。最近流行の「ニューメディア」ではなく、むしろ「オールドメディア」に属する。しかしアイデアは新しい。利用法は次々に利用者が考えればよい。いわばニューメディアである。
 電気通信事業法が衣がえし、情報と通信の組み合わせによる、新たな事業が可能になった。建設といういわば土地を使った業務の近代化のためには、通信手段も在来のままではなく、何かひと味工夫を加えて、合理化をはかる必要がある。現場と本社、現場と職方との連絡に費される時間の浪費は、一日の限られた時間に対して大きな比率を占めている。相手の不在に舌打ちをしてもはじまらない。コンピューターの利用が、いよいよ本格化し、コンピューターそのものを表面に出さない新しいシステムが次々に世に現われるようになった。ボイスメールはその一つに過ぎないが、応用の範囲は広い。
 内線電話網がすでに飽和状態になり、さりとてダイヤルインは、相手にとって必ずしも便利ではない。電話に頼る比率が極めて高くなってきた今日において面白い解決手段である。

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コンピューターの普及率 (1985年4月2日)

 構造家懇談会という団体がある。簡単にいえば建築構造の専門家の集まる会で現在約千名の会員数を擁しており、会の活動もなかなか活発である。一九八三年四月の会報に、小型コンピューターの利用状況調査という会員を対象としたアンケート調査の結果が載っていた。
 調査時点での会員数は約五百名で回答総数は約二百通であった。この中で構造設計にマイコンを用いているとの回答が七四%、無回答も含めて用いていないと笞えた人は二六%であった。既に二年前の調査結果であり当時のパソコンの普及度合は現在に比してかなり低かったはずである。この結果をみてパソコンは構造設計の領域に相当深くかかわりあっていると感じたものである。
 一方、日本建築学会では毎年三月に「計算機利用シンポジウム」を開催しており、今年は第七回を迎えた。論文総数七十編、参加人員千五百名を数え、コンピューター関連各社の展示会等もあって学会の活動としても定着した感があった。論文の中に「建築業界における電子計算機利用の実態調査に基づく研究」と題する実態調査の報告があった。調査対象は合計二千件、回収率四〇%で回収された対象のうちコンピューターを所有している企業は四八%、未回収の対象を未所有と考えれば全体の一八%がコンピューターを所有しているとの結論である。
 論文の中で対象をかなり細かく分類しているが、これによると構造計算には八〇%がコンピューターを使用しているということで、先の構造家懇談会の結果と類似している。しかし、構造を除くと他の普及率は更に下ることになり、建築におけるコンピューターの応用はまだまだこれからということがいえる。
 建築の業界にコンピューターが導入されてから既に二十年を超えているが、構造設計への応用からスタートし、普及してきた過程も、常に構造が先導する形で推移していることがわかる。しかし、そろそろ他分野への応用が活発化している。先のシンポジウムの展示も昨年は構造関係が主流を占めていたが、本年は企画設計への応用のデモンストレーションが多くを占め、いよいよ本格的なコンピューターの普及の前ぶれとも思われる雰囲気であった。
 パソコンのグラフィツクスは汎用機に比しかなり優れており、建築の企画設計を、グラフィツクスを駆使しながら行うことができれば、従来の手法を一変させ、企画階での設計技術レベル向上につながる。ただし、そのようなソフトウェアが急に出現するわけではなく、試行錯誤を繰り返しながら次第に状況に合ったシステム作りを行い、数年後にある段階にまで達するという展開が予想される。その間にパソコンを使い、コンピューターのもつ特性に馴染み、時にはソフトウェアに対する不満をぶつけながらシステムの向上に合わせた技術の研讃を続けることが必要で、いきなり完成されたグラフィツクスに馴染むことは難しい。
 コンピューターは未だ完成されたシステムではなく、開発途上の商品である。しかし、コンピューターがテレビや洗濯機と異なるのは購入して直ちにメリツトが顕著に表れないという点である。使い手の能力と期待の度合によって役に立ち方が大いに異なるという特徴をもつ。従って開発途上にあるうちに将来の姿をある程度予測しながら利用していないと、商品として完成した時には、自分だけがおいてきぼりを食わされることになりかねないやっかいなものではあるが、建築という技術と習慣が入り交った対象には有益な道具であることも事実である。

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お荷物になるコンピューター(1985年3月5日)

 コンピューターは企業に利益をもたらしてきただろうか。少なくとも過去においては企業全体にとつて利益をもたらしたかどうか極めて疑問である。
 コンピューター導入以前に考えていた導入効果と、導入後三年程度経過した時点における状態とを比較してどれだけの差が生じたかを考えてみてほしい。導入前に想定した導入効果を存分に発揮している企業があれば、むしろ奇跡に近い。それ程、コンピューターにかける期待が大きかったわけだし、結果は期待したほどのものではなかったことを思い知らされる。
 導入計画を行っている頃、担当者の多くはコンピューターに対する知識をほとんど持たない。そして知識の全てをコンピューターメーカーのセールスマンからの資料やメーカーの主催する講習会に出席することによって得ることになる。担当者の仕事は社内の利用者からの要求をコンピューターに如何に処理させるかを考えそのためのソフトウエアの開発を行うことから始められる。ソフトウエアは開発を始めた時期には比較的スムーズに進行する。耳なれなかったコンピューター用語にも次第に馴染み、社内利用者の代表としてコンピューターメーカーからシステムについての各種の情報を得る。ソフトウエアの完成の時期は考えていたよりも少しずれ込むのが普通である。社内利用者に対する教育も済み、いよいよ利用し始める。データをインプットしてみると、思ったような結果が出てこないことがある。調べてみると一寸したソフトウエアの間違いに気付く。修正してやり直す。また、結果のおかしなところがあり再び修正する。何度か繰り返して何とか一通りの結果を得る。社内利用者の数は、コンピーター担当者の人数に比べはるかに多い。ソフトウエアのバグに基づくコンピューターの間違いは、利用が進むにつれて随所に発生し、担当者はその対応に追われ始める。
 いつもコンピューター室だけが、夜遅くまであかあかと電灯がともり担当者の残業が続く。そのうち社内の利用者から本格的なコンピューターの利用の時期を大幅に遅らせた方が良いのではないかという意見が出される。
 ソフトウエアのバグもさることながら、コンピューターの容量不足により、処理時間が予想よりはるかに長くかかり、その対応に追われたり、プログラムの分割をせざるを得なくなったり、という見通しの悪さに振りまわされる。メーカーはメモリーの増設やディスクの増設の提案をする。担当者の上司にかくかくしかじかとの説明を行う。増設のための費用が、当初の二倍にも達することもしばしばである。上司や社内利用者に対する担当者の態度は、次第にメーカーの立ち場に近くなり、社内の代表としてメーカーに対するのではなくて、社内をいかに説得するかということに力をそそぐようになる。
 そして、計画が大幅に遅れ、費用が当初予算をはるかにオーバーしたコンピューターが稼働しはじめる。もう後には引けない心境のまま、全社をあげてコンピューターのお守りをすることになる。
 高度成長期において、企業の業績が年々飛躍的に向上している時期にはコンピューターの導入を一種の研究費とみることができたし、計画の齟齬は業績の向上によって吸収し、問題を表面化することなく見逃しても済んできた。しかし、成長が止まると次第にコンピューターにかかっている経費の負担が目につくようになり、各社とももう一度見直しの機運が高まってきた。社内の日常業務に深くかかわり合うようになってしまったコンピューターは、一朝一夕に捨て去るわけにはゆかない。コンピューターを使いこなす力量を養うことは大変難しいことなのである。

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コンピューター導入時の心構え(1985年2月4日)

 パソコンの実用化が進んでいる。ひと頃あれほどのブームを呼んだ八ビットパソコンはすっかり一六ビットパソコンに主役の座を奪われた。一六ビットパソコンは確かに高機能である。実用に耐える建築用のアプリケーションソフトが次々に市場に登場しており、本格的なパソコンの実用期を迎えた。
 長い間コンピューターを高嶺の花と羨望の眼で眺めていた中小の建設業、小規模の設計事務所もパソコンを使いはじめた。ようやく使い始めることができるようになったという思いは、ことのほか強いのではないだろうか。コンピューターはなくても仕事はできる。しかし、コンピューターを使った方がより良い仕事ができる。コンピューターを導入するに当たって最も大切な心構えはそのことである。コンピューターやソフトウエアを売る立場の人々は、ややもすれば、コンピューターがあれぱ今までできなかったことがすぐ今日からでもできるようになるかのようなセールストークによって利用者に過度の期待を抱かせる。コンピューターは、単なる道具に過きないわけで、道具をうまく使えるようになるにはそれ相応の努力の積み重ねが必要なのである。そのために、どれだけの時間がかかるかは便う人の能力にも関係するから、他人の話はそれほど参考にならない。
 コンピューターは知的な仕事を行うための道具である。コンピューターを利用することによって、従来と何が変化するかを想像できなければならない。仮に一人で仕畢をしている構造事務所でパソコンを購入した時「これでいくらか楽になる」という期待は当然抱くであろう。いつか将来は、従来と大きな変化が起きるとの期待を持つことは良いが、その間は、従来よりはるかに忙しくなると思わなければならない。コンピューターを導入する前に「構造事務所として現在行っている業務形態に対する反省が必要なのである。コンピューターが事務所を変えるのではなく、コンピューターを利用する人々が、その業界全体の常識がはたして正しいか否かの批判も含めて見直すことが必要なのである。
 現在、設計事務所から建設業に渡される図面のままではほとんど施工できないといわれる。現場でもう一度施工図を引き直さなければならない。意匠図と構造図及び設備図との間の矛盾や細部の納まりの悪さに対する責任感が、設計事務所から建設業に移ってしまっており、ディテールを知らない設計屋が多くなったともいわれる。
 そのような傾向は次第に助長される。そしてそれを当然とする事務所にコンピューターを導入すれば、そのうち設計者はデータ入力者になり下がってしまう。既にその危険な徴候が各所に表れており、事務所そのものの存立にかかわる大きな問題になることも考えられる。建設業と各職方との関係も同様である。誰が本当に仕事をし、最終の責任を持たなければならないかということを考え直す時がきているのではなかろうか。
 コンピューターを導入することによって、従来手の回らなかった仕事も、ようやくこなせるようになるのではないかという期待と、従来と同じ仕事を短時間で行えるという期待とは本質的に異なるもので、前者は努力の、後者は逃避の心が根本に存在する。コンピューターを導入すれば、経費が増えて仕事は忙しくなる。特に初期の段階は勉強をし、新たな技を身につけるための訓練が必要になるのだから、従来の二倍も働かなければならない時期も生ずる。
 安易なコンピューターの導入は、いたずらにいずれ便わなくなる道具で事務所のスペースをせばめるだけである。

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イメージシステム(1985年1月9日)

 第五世代コンピューターという十五年先を見通す努力は、国ぐるみのプロジェクトとして既に三年前から続けられている。それとは全く別に、実用的な次世代コンピューターが、既に民間のベンチャービジネスの手によって世に現われ始めてきた。
 現在のコンピューターの最も弱点とされるものは、結局のところ各ユーザー毎にソフトウエアを開発しなければならないという点にある。特に事務処理においては、各社各様にそれぞれ長年にわたってルール化されてきた各社独特の事務システムが存在し、企業の運営が行われており、とてもソフトウエアパッケージによって画一的な処理で済ませられるものではない。それでも過去にソフトウエアパッケージに合わせた事務改善を行い、コンピューターにかける経費を少しでも減らそうとする努力は、主としてオフコンのディーラの手により行われてきたが、所詮は本質的な解決とはならず、導入したオフコンは部屋の片隅にピニールシートを被せて片付けられてしまう場合すらしばしば生じている。
 ユーザー各社が、自社でやりたいことは何かを明確にした後にそれが実現されるまでに時間がかかり過ぎ、その間に業務処理の実体が変化してしまう場合もあるし、ソフトウエアを担当した技術者の技量不足のために思うようなシステムにならなかつたということもあろう。
ソフトウエアを作ることなく、コンピューターに向かって、「こういうことをしたい」と表現すれば、後はコンピューターがそのように動作するようにならないだろうか。これは現代のコンピューターの理想である。その理想的なコンピューターが既に実体的な次世代コンピューターとして、世に現れているのである。
このシステムはイメージシステムと呼ばれる。イメージシステムは普通の小型コンピューターであり、今のところいわゆるパソコンより少し高価なハードウエアを用いているが、やがてパソコンでも利用できるようになる。イメージシステムの特徴は、ソフトウエアの開発を必要としないことである。ソフトウエアを作らずにコンピューターにやらせたいことを指令するために、一種のワープロのような表現を必要とする。ディスプレイ画面にワープロと同様の操作で、ユーザーのデータを打ち込みさえすれば、そのデータを後にどのように加工することも編集することも、切ったり貼ったりすることも可能になる。
イメージシステムは、人間がイメージした内容をコンピューターに教え込み、イメージしたような処理をコンピューターにさせようとするシステムで、主としてデータを入力するために必要な日本語処理を含むイメージベースと、これらのデータを自由自在に加工するイメージエディターそれにデータを紙に出力するイメージレポートの三部作である。コンピューターのプログラムは通常あらゆる予測される処理をあらかじめ想定しておかなければならないとされていた。実際には日常業務には予測不可能の事態が次々に発生するので、あらかじめ想定した処理形態は実情にすぐ合わなくなる。イメージシステムは、処理形態を予測することを放棄し、その時その時に発生した必要な処理をその都度コンピューターに指示しようとするものである。プログラムをしないで済むコンピューターシステムに対する要望は、従来のオフコンユーザーの誰もが抱いていたもので、今年はそれが具体的なシステムとして登場する年となった。さんざんコンピューターに泣かされてきた建設業界にとってイメージシステムの出現は、他のコンピューターメーカーを大いに刺激することも含めて、大きな期待をもたせ、ようやく真に役に立つコンピューターの到来を思わせる。

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