1987年 1月−11月

構造設計法の見直し(1987年12月1日)

 構造設計者のパソコンの利用状況は、いよいよ本格的な実用期に入ってきた。整形の構造物に関しては、RC,S,SRCとも一貫設計用の市販のブログラムを利用し、分厚い計算書が、立ち所に打ち出される。そのデータの入ったフロッピーディスクを作図用のプログラムにかけると、構造図が書ける。後は、二次部材の計算プログラムによってスラプ、小梁、基礎などを計算すれば、立派な申請用図書が整う。構造設計者が最終的なチェックを行うのに要する時間が、構造設計の工程におけるクリティカルパスになってしまっている。中には、チェックを省いて申請し、そのまま確認が下りてしまう場合も多い。
 柱抜け、セツトバツク、傾斜通りなどを含む変則な構造物の場合は、さすがにそこまでは機械的にはいかないが、手順を変えて、作図用のデータを先に作製し、そのファイルからフレーム解析に必要なデータを機械的に抽出することを考え、三次元フレームの解析ソフトにかければ、ほぼ自動化は可能になる。数年のうちにそのように自動化される公算が強い。パソコンの処理能力はその程度の処理を行うには十分すぎる水準に達しているし、今後の能力向上についても、価格を下げながら着実に進められることが予想される。
 現行の設計基準は、そのような事態を想定して作られているわけではない。計算基準そのものは、一つのガイドとして示されているもので、その通りにさえ手順を追えば、構造物の安全が保障されるというものではない。学界の委員達は、それほどの責任感を持って計算基準を作成しているわけではない。あくまでも構造設計を専門職とする、良識ある一級建築士が判断して利用することを前提として編さんされる。その裏付けに甘んじて、かなり大胆な項目をも導入したり、建設業界を始め、各種の材料メーカーなどの言い分を通しながら妥協して組み込まれるものもある。
 コンピューターの利用が、ここまで進んだことを考えれば構造設計の方法、確認申請の制度、ひいては建築士法そのものの改革、改正に着手するべき時がきていると思う。現在の設計基準は、計算のテクニックに走り過ぎている。偏芯を回避するためにスリツトを入れるなど小手先の数字合わせではなく、両者の比較を真面目に研究することのほうが大切である。このまま推移すれば、構造設計者は必要なくなる時は近い。また、二十万人を超すと言われる一級建築士の処遇も問題である。これだけの人数になれば、質にも問題がでるであろう。確認申請の構造の取扱いは問題が特に大きい。行政窓口の担当官の立場は極めて曖昧である。ある時は、構造設計に使用したプログラムの評定の有無をチェックし、あれば内容に目を通すことなく確認を下ろし、なければ評定済みプログラムを使用させるように指導する。評定作業がどのように行われているかが問題である。プログラムのミスは全くないことを前提として、評定を行っていることは意外に知られていない。評定済みプログラムを使用しても、最終的な資任は構造設計者にある。行政が責任を取るわけではない。日常的な処理に追われると事の本質を見失うことになる。

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専門家とコンピューター(1987年10月31日)

 コンピューターが普及し、各専門分野において技術者自身がコンピューターに触れ、その利用法が研究されるにつれて、次第にコンピューターを前提とした業務処理が、従来の方法に取って変わるようになってきた。「コンピューターはどうも苦手で」といって済ませられない時代になった。コンピューターを使わない専門家は、専門家としての能力が欠如し、生き残れない事態が種々の分野にさまざまな形で現れ始めている。
 建設の各種の専門領域のうち、設計、積算、施工のすべてにわたってコンピューターが浸透しはじめており、コンピューターを使わない設計者は、使いこなしている設計者に比して、設計の質において見劣りがするという事態も生じている。積算も、コンピューターによる拾い出しの速度は手作業による拾い出しを上回り、集計の正確さは当然比較にならない。施工現場における工程管理にしても、コンピューターを利用する方が、はるかに良い管理が期待できる。ただし、ここで言うコンピューターの使い方は、各業務の専門家がパソコンと市販のパッケージを購入して、従来から行っている自分自身の仕事に使用する場合のことをいっているのであって、業務に精通していない人達がコンピューターを使って専門家にとって代わる仕事をこなすというようなことではない。今盛んに新聞や雑誌にPRされているAIによって専門家がその職域を犯されるという類いの荒唐無稽な話ではなく、専門家がコンピューターをなるべく早い時期に取り入れて、自分の仕事のレベルアップを図らないと、専門家同士の闘いに敗れ、次第に時代に取り残されてしまうと主張しているわけである。
 家を建てたいという人は、一生に一回の大仕事であり、金銭的な負担も大きいし、半面、家を持つ楽しみも計り知れないほど大きい。建築家は、その人達に代わって設計を行い、施工をする。少しでも良いものを作り、施主の役に立とうとする気持ちがあれば、コンピューターの勉強くらいのことは何ほどのこともないはずである。今、コンピューターを毛嫌いする人は、怠惰のそしりをまぬがれまい。
 十年前の汎用コンピューターやミニコンは、価格に比して機能が貧困であった。メーカーやディーラーの話を鵜呑みにして、高価なコンピューターを導入し、多額のソフト開発費をかけて、しかも結局は挫折した経験者は数多い。その人達にしてみれば、「もうたくさん」の気持ちになるのは当然である。その種のコンピューターの利用経験者から評価を聞いた人々は、コンピューターに対する印象が極めて悪い。利用技術の習得に時間がかかり過ぎて、到底専門家が直接使えるような代物ではなかったから、コンピューターを使わないという判断も正しい場合が多かったであろう。
 しかし今のパソコンは、買ったその日からでも使い始められるし、使えばそれだけの効果が上がる。ソフトウエア・パッケージも淘汰の時代に入り、粗悪品は駆逐されている。躊躇している時期ではない。

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緩やかなOA化のすすめ(1987年10月1日)

 建設業界のOA化が、急ピッチで進められている。
 円高による苦境を回避するために生産拠点の海外進出が図られ、わが国全体に空洞化現象が進む中で、内需拡大のかけ声とともに奇妙な建設ブームが起こり、建設業だけはどこも活況を呈している。不況をかこつコンピューター業界は以前にも増して、建設業界への売り込みに激しさを加えてきた。
 すでにワープロとファクシミリと複写機は隅々まで普及した。次はコンピューターの番である。この際、懸案のコンピューターを導入して、という企業は少なくない。
 ともかく、ここ数年の間にコンピューターは、随分使い易くなった。パソコンが主役となってからのコンピューターは、省力化、効率化の道具としての位置づけが確立した。過度な期待さえしなければ、日常業務に利用する方が効率的であることは間違いない。
 問題は、どのような過程を経てコンピューターを取り入れ、日常的に使えるような状態にまでもっていくかということであろう。市販のパツケージソフトを購入して、いざ使い始めようとしてから、実際の業務がそのソフトとコンピューターによって消化されるようになるまでに、担当者は実務をこなしながらコンピューターを修得しなければならない。一見簡単そうに見える操作が、ほんのさ細なことを知らないために長い時間立ち往生させられる。マニュアルのどこを見れば書いてあるか始めのうちは見当がつかない。色色のキーを叩いてみたり、マニュアルを繰り返し読んだりしながら、いつかそのソフトの使い方がわかってくる。市販のソフトだからそうなのではなく、注文ソフトの場合はもっと大変だという事実を知らないと、まんまとコンピューター屋の餌食になってしまう。
 注文品を注文どおり作り上げるソフト開発の技術は、まだ確立していない。注文ソフトは、既製のパツケージソフトに比べても質が悪い。洋服を注文したり、建物を注文するような気持ちでソフトを注文しても思ったような物が出来て来ない。注文したソフトハウスが悪かったというのではなく、どこに頼んでも大同小異である。かつて、パッケージソフトが市販されるほどコンピューターが普及する以前には、利用者はそれぞれ自前のソフトウエアを開発して使用していたが、その時代にはコンピューターの利用目的が、省力化や効率化ではなく、業務のレベルの向上にあったから、ソフト開発に膨大な費用を掛けることも許された。その負担に耐えられる企業のみがコンピューターの利用者になりえたのである。
 コンピューターを導入していることが企業のステータスを象徴するとされた時代もあった。
 しかし、今のコンピューターは実用機である。しかも、年々新機種が発表される。前年のモデルと比較すればその差は微々たるものではあるが、数年前の物と比べれば格段に性能が良くなっている。
 OA化を推進しようとするムードからすれば、一度に最新のコンピューターを必要なだけ勢揃いさせて、すべての業務を一気にコンピューターで処理させてしまおうと思う気持ちになる。そこに落とし穴がある。優先順位を決めて、一つの業務をまず処理してみる。それが軌道に乗ったら次にとりかかる。その時にはきっと次の最新機種が発売されている。コンピューターというものはそういう物なのである。

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確認業務の行革(1987年9月1日)

 建築の確認業務が各市町村、区等に分散されて以降、確認作業を行う行政官の人数が急増した。確認作業のうち構造の安全を確認する作業は、極めて専門的に奥の深い知識を必要とする。当然、専門官の養成には長い年月を必要とする。
 しかも構造設計の設計基準は年々複雑化して、しかも計算書の枚数そのものは、コンピューターから出力されるプリント用紙が益々厚みを増す。役所の機構は、二、三年に一度の人事移動が通例となっており、確認申請の窓口も例外ではない。
 専門的知識の習得はよほど組織的に行わなければ、不可能である。
 この矛盾を、プログラム評定という極めて役人的な発想にもとづく画一的な事務処理で補おうとする制度が定着しかかっている。この制度の最も大きな問題点は、十五年も前の旧式なコンピューターを前提として、一旦入力されたデータは完全にコンピューター内部で管理され最終のプリントまでー切、設計者が手を触れることができないようなプログラムであるべきとされていることである。その大前提が、そのままパソコン用のプログラム評定制度にまで、引継がれて運用されている。今時のパソコンが処理の途中で、外から一切手を触れられないなどということを信じている人はいない。計算途中のファイルはいつでも好きな時に見ることができるし、訂正することが可能である。一貫設計の評定プログラムは、画一的な処理を行うように作られているから、そのまま適合する構造物は極めて少ない。部分的な修正を施して使用すれば、購入した評定プログラムの利用頻度は飛躍的に向上する。
 このような事態はプログラム評定制度をパソコンにまで拡張したいと、関係者に諮問した五年前に既に予見されていたことである。にも拘らず強引に制度化された裏には、努力して行政窓口の担当官の技術力を向上させようとしないで、代わりに事務処理で間に合わそうとする役所側の姿勢と、それに迎合した学会の事なかれ主義が強く根を張っていることが指摘されよう。
 パソコンの普及は、構造設計者に限って言えば、ほぼ100%に近い。従ってコンピューターの利用を前提とした設計法を新たに導入するべき時期がきている。わが国の実情からすれば、最も重要な耐震設計に、より重点を置いた設計方法を導入すべきで、従来の一次設計を省いて、保有耐力の算出を軸とし、二次部材のチェックを付帯させる方法は、有力な一法である。分厚い一次設計のプリントアウトはもはや設計図書とは言い難いから、提出資料から省くことは、申請者にとっても受付け窓口にとってもメリツトが大きい。仮定断面を正しく設定できる構造家とそうでない人との労力の差は、現在より広がることになるが、それはむしろ技術力の向上を促すことになり、構造物の安全の見地からも望ましい。
 戦後の民主主義導入から四十年を経て、官民ともに公僕という言葉が遠くなり、役人が君臨する気配が濃厚であるが、これからの役所は、民間以上に努力し、文字通り公僕としての義務を果たしてほしい。

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プログラマーとSE(1987年8月3日)

 最近かなり頻繁にソフトウエア会社の実態に関するアンケート調査の書類が送られてくる。○○省△△局の依頼状と財団法人口□研究所のアンケート用紙が入っており、真面目に記入すると一時間では到底終わらないほどの分量のものも多い。国家予算をふんだんに使ってソフトウエア会社の実態調査を行うこと自体にも疑問はあるが、答えないと後々何か良くないことでも起きそうな、一種の脅迫感を感じさせられるので、ついつい付き合わさせられる。
 アンケートのなかに、SE(システムエンジニア)とプログラマーの人数を聞いているものが多い。暗黙のうちに技術者の位分けをしている意図が伺われる。SEの方が上で、プログラマーはその下働きかSEの卵と見た質問に思える。もっと端的に、五年以上のプログラマーの経験者をSEと呼ばせるものもある。そして、それぞれの人数を記入させる。ソフトウエアの製作工程を大別すると、設計、コーディングおよびテストの三工程に分類でき、設計をSEが担当し、他の二工程を主としてプログラマーが行うものとされている。
 プログラムの品質が、コーディングを行うプログラマーの力量に左右されるという事実は、意外に知られていない。プログラマーの能力評価を殆ど行わないのは、質をうんぬんしては、プログラマーの頭数を揃えられないためか、能力の低いプログラマーに遠慮しなければならないためか、あるいは能力の差異をつかむ能力が管理者にはないからか。いずれにしろ、経験年数以外の評価をなかなか行わない。最も大切な部分に目をつむって、形式だけを整える風習は、ソフトウエア開発だけでなくあらゆる分野に蔓延している風潮かも知れない。しかし、それは確実に製品の品質を落とし、使いものにならないソフトウエアを量産する結果にしかならない。
 SEに関しても同様のことがいえる。プログラマーの古手がSEではない。SEという専門職であって、プログラマーとは別個の能力と知識を必要とする。当然、能力の高いSEの設計したソフトウエアは良いものになる可能性が高い。能力のあるプログラマーがSEとしての能力を発揮する場合もあるが、プログラムを書いては超一流の技術者に、プログラムの設計をさせたばっかっりに、大失敗をする場合も珍しくない。能力のある専門家をその職種の専門職として厚く処遇する道を考えることは、管理者の大切な仕事である。その努力を怠つて画一的に物事を処理してしまおうとする発想では、良い仕事はできない。
 プログラマーとして、一生仕事を続けることはおおいに推賞すべきことであり、妙にSE等という用語でカムフラージュすべきではない。プログラマーよりSEの方が給与が高いという風潮が蔓延しないようにしてほしい。プログラマーのなかでもできの良い人はたくさん稼ぎ、そうでない人はそれほど稼げなくて当たり前というほうが自然である。SEでもプログラマーより給料が安くてもー向にかまわない。左官と大工の関係と少しもがわらない。海彦山彦の実話は、現代の先端技術の領域に極めで多い。

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ソフトウェアのバグ(1987年7月3日)

 コンピューターが普及し、極く日常的に用いられる機器類にも、コンピューターによる制御装置が組み込まれるようになると、ソフトウエアバグの引き起こす事故の重要性を、改めて認識しなおす必要に迫られる。
 最近、米国において、肩の腫瘍を摘出する手術を受けた後、放射線治療中にコンピューター制御の加速器の誤動作によって、過剰な放射線を浴びて患者が死亡するという事件が起きた。遺族と弁護士は腫よう治療医と放射線装置のメーカーを告訴し、目下係争中である。原因は、装置を制御するコンピューターに組み込まれたソフトウエアの誤りにあった。この訴訟が、他の類似の事件とともに、コンピューター企業のリスク意識を急速に高めるだろうといわれている。ある法律家によれば、従来、この種の事件で責任がコンピューター企業にまで及んだことはなかったという。放射装置のメーカーはオペレーターにもミスの責任があると主張しているようであるが、医師と癌センターは装置のソフトウエアに責任があると指摘し、裁判は長期化する可能性があるとも予想されている。
 ソフトウエアをサービスと見るか、プロダクトと見るかが裁判の結果を左右すると見られている。サービスであれば、ソフトウエアの開発過程のどの段階に過失があったかを追及して、過失が明らかになった場合のみ責任を負うことになるが、プロダクトであれば、損傷そのものに責任があるとされる。
 ソフトウエアの開発者は、そのような深刻な事態を予測しながら仕事をしていたとは思えないし、発注者の装置メーカもソフトウエアを発注する時点で、開発を担当する技術者に事故の責任を負わせる意図は毛頭もなかったと思う。
 ソフトウエアの開発は、設計、コーディング、テストの三段階に大別される。通常テストによってコーディング段階で生じた誤りの検出を行うが、起こりうる全ての条件を設定することは場合の数が多すぎて不可能であり、大筋のみがテストされる。そしてその段階で発見された前工程のミスの修正が行われる。人は性格も技量も資質もさまざまである。ソフトウエアの質はコーディング技術のレベルによって大きく左右される。
 開発に際して、テスト終了時になおバグが残ることを前提とした設計を行っている技術者はほとんどいない。また開発を始めるに際して、そのソフトウエアのもつ重要度を頭に置きながら手順を決定する技術者もいない。今回の事件のように間違いを許されないものも、何度でもやり直しのきくものも、区別なしにソフトウエアの開発が行われているのが現状であろう。それだけソフトウエアの開発はまだまだ未成熟であり、作るのが精一杯なのである。
 コンピューターは益々普及するし、次々に新たな応用分野が開拓されることになろうが、パグの及ぼす影響の大きさによって、ソフトウエアの開発方式と検証の方法の選択、更にはコーディング技術者の選定を行うべきである。人は誰でも同じ、という前提でなく作業する人によって、ソフトウェアの質が決まるという認識が必要である。

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情報システム部の見直し(1987年6月1日)

 一九八十年代はコンピューターが大量に生産され普及し、建設業界にも大量のコンピューターが流れ込んできた時代である。
 数少ない高価なコンピューターを大勢の人々が共用する時代から、コンピューターを一人一人が一台ずつ専有する時代に移行し、コンピューターの価格と性能に大きな変革をもたらした。量産されるコンピューターは性能も品質も高く、少量しか生産されない特殊なコンピューターは品質が伴わない。
 パソコンが大形のコンピューターを性能面でも凌駕する時代がやってきたのである。当然、ソフトウエアの開発手法と利用方法にも、大変革をきたしている。より正確に言えば、変革に挑戦しなければならない時がきているというべきであろうか。従来の手法やプログラム言語にかかずらわっていてはとうてい需要に追いつかないし、開発費が掛かり過ぎる。
 もともとソフトウエアというものは、ハードウエアの及ばない部分を補って、利用者の利用目的にあった機能をシステムに持たせるという役割が主体であるから、ハードウエアが変われば当然そのカバーする領域は変化する。ハードウエアは各時代において、調達しうる部品を前提として設計を行う。従って、ハードウェアに用いる部品の製造技術が進歩し、機能的な変化があれば当然ソフトウエアの内容も、開発手法も変化をきたすことになる。
 ソフトウエアは論理の組立てによって作られる。しかし、ソフトウエアが利用される環境はあまり論理的ではなく、極めて人間的な習慣や因習に支配されている。建設業界における設計用ソフトウエアの場合、原理そのものは古典物理学の法則に支配されているわけだから、明快な論理の組立てができるのであるが、実際の物を原理に当てはめる時に先人の経験や実験結果に基づいた規則に従う。規則には例外が伴うし、規則の解釈が複雑な場合が多い。しかも規則は年々変化する。
 設計用プログラムがパソコンの上で利用するのに適しているのは、パソコンがプログラムを作りやすいからである。設計者にとって分かりやすいプログラムを開発できるし、開発の速度が速く、コストも低い。当然保守費用も安くなる。設計者が規則の運用をチェックするにも、規則の変更にプログラムを追随させるのにも、パソコンは優れている。
 大型コンピューターがパソコンより能力が高いという時代は三年前までの理屈である。過去二十年にもわたって大型コンピューターを便い続け、社内の組織もコンピューターの不備を補いやすいように、社内の情報システム部を構築してきたのだから、そうそう簡単に組織を変えることができないかも知れない。しかし既に時代は移っており、いつまでも古い時代のコンピューターにかかわっていては、新しい時代についていけない。一方では、既に膠着状態にある情報システム部の人事問題解決のためにも、そろそろ各社それぞれが正しい判断をして、コンピューターの運用をしなければならない時期がきている。

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ソフトウエアの評価(1987年4月1日)

 パソコンの普及は、ソフトウエアパッケージの流通に負う所が大きい。購入して直ちにコンピューターを利用できるという手軽さがなければ、これほどまでパソコンは普及しなかったと思う。パソコンは今、一事業所に一台の時代から一人一台の時代へと移りつつあり、ソフトウエアパッケージの重要性はますます大きさを増している。パッケージの評価についての問い合わせも増えている。
 パッケージの評価基準は、特定の評価者が決めるものではなく、利用者の役に立つかどうかで決まる。利用者が使ってみて「良かった」と思えるものは、良いソフトウエアなのである。そのような利用者が多い程良いパッケージであるということができる。
 パッケージを購入し、使い始めの頃は慣れないせいもあって、どうしても使い方がぎこちない。データの入力ミスが原因で正しい結果が得られないというようなこともしぱしぱ生ずる。そのような時に、ソフトウエアの販売者か開発者に質問が集中する。初歩的な質問に根気よく応対しているうちに次第にソフトウエアの良さが分かるようになる。勿論その逆に悪さが明白になるソフトウエアもある。いずれにしろ、利用者が評価した結果はいわゆる口コミを通じて他の利用者やパッケージの導入を検討中の人々に伝播する。売り出し始めのころ良く売れたパッケージがその後バツタリと売れなくなることがある。発売当初はそれほど評判にならなかったものが、ジワジワと年月をかけて、次第に利用者の層を広げてゆく場合もある。パッケージの消長は激しく、利用者の評価は厳しい。
 ソフトウエア・パッケージの購入に当たって、試使用をどのように行うかも今後の問題である。大量のデータを必要とするようなパッケージの場合は、データの準備に大きな労力がかかる。簡単に「テストを行う」ことの難しいものに対して、販売者も利用者も工夫を凝らさなければならない。その種のパッケージは、一般に高価でもあるし、使いこなせるまでに 時間がかかるのが普通である。一回導入と決めれば簡単に取り止めるわけには行かないから、十分テストし納得した上で導入を決定したいわけである。ベンダーによっては、テスト使用の契約を準備しているところもあるし、テスト用のショールームを用意して待つところもあり、利用者も研究の場が増えているのでそれらのサービスは大いに活用するべきであろう。
 コンピューター資源が豊富になり利用者の選択の範囲が広がったことは次の技術的な進歩を促す。
 ソフトウエアパッケージの本格的な流通はこれからはじまるといってよい。利用者の目が肥え、生半可なパッケージや、保守を怠るものは次第に姿を消し、十年先まで安心して利用できるものがシェアを広げることになろう。
 十年先まで保守をなし続けることは容易なことではない。その覚悟のない開発者の作るパッケージはたちまちのうちに姿を消してしまうことになる。

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電算システムの見直し(1987年3月4日)

 円高不況に加えて売上税の導入という、民間企業各社に対する圧力はより一層の企業努力を強いており、政府においても行政改革による緊縮財政の推進が国民に対するせめてもの償いであろう。
 税制改革は常に行政改革による予算の削減と対でなければ到底国民の受入れ得るものではない。役人天国にあぐらをかきながら庶民を締め付ける悪政の前にはコンピューターの利用方法の改善による企業努力など消しとばされてしまう。
 社会的背景はともかくとしてコンピューターは技術的にようやく円熟期にさしかかってきた。量産による効果がコストの低減と品質の向上の双方に多大の影響を及ぼし、コンピューターの利用者に本当の意味での導入効果をもたらし始めている。それに伴って金さえ積めば高い性能のコンピューターを利用できるという時代は過ぎ去ってしまった。金を積む代わりに知恵を出さなければ巷にあふれ始めたコンピューター資源を有効に活用することが難しい時代に入っている。単体としてのコンピューターは従前に比して極めて安値で購入することができる。各企業にとって必要なシステムの構築には単体をいかに上手に組合わせるかに知恵を絞る必要がある。
 頭を働かせれば働かせただけの効果が期待できる環境が整ってきたわけで、言いかえれば、それほど豊富なコンピューター資源が世に現れ始めているのである。
 過去における一時期、コンピューターシステムは一種のターンキーシステムとして、利用技術も含めて、一括に購入することが常識とされたことがあった。その時代には、利用者はハードウエアメーカーの推奨するシステムをそっくりそのまま利用し、機能に不足のあるときにはソフトウエアを利用者の負担において開発して補うべきものとされていた。
 コンピューターの機能が増え、容量が増すにつれて利用者の責任において開発するべきソフトウエアの量は飛躍的に増大する。導入当初はだかだが数人で運営されていたコンピューター室はたちまちのうちに百人を超す情報システム部に変貌し、なお多大のバツクログと呼ばれる未開発ソフトウエアの山を抱え込むに至る。
 企業の高度成長期がたまたまコンピューターの未成熟期に当たったこともあつて、情報システム部の増員は真の必要性の議論より現実の混乱に目を奪われて、ほとんど当事者のいうままに容認されてきた。しかし、安定成長期からマイナス期ともなると、要員も含めたコンピューターシステム全体の見直しを行わなければならなくなる。コンピューターの技術的な成熟期を迎えて利用者自らが考えシステムの構築、再編成に取りかかる時期になったといえよう。
 建設業界は独特の習慣があり、これらの習慣、慣習を熟知した人々によって作られたエレクトロニクスパッケージが販売され、普及しはじめており、これらをシステムに組み込みながら各社各様のシステムを構築してほしい。自動化システムではなく、人間の考える力を引き出すような、人間と機械のそれぞれの特徴を発揮させるシステムが必要なのである。

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OA化の根本問題(1987年1月30日)

 わが国のあらゆる分野に、すさまじい勢いでOA化の波が押し寄せ始めてから、既に三年の月日が経過した。建設業界にもワープロ、パソコン、フアクスといったOA機器が導入され、それらの業務への利用度は次第に高まっている。和文タイピスト達はワープロのオペレー夕に置き換えられ、本支店間の郵便はファクスによる交信が主流を占め始めている。
文書類が書類の形からフロツピーディスクに代わって一見OA化の効果は上がったかに見える。しかし、かつての手書きのメモ類までワープロに無理やり移してしまうようなところは、合理化どころか大きなマイナスを背負ってしまう。なぜなら、手書きの速度に比べてワープロの速度は十分の一程度でしかないからである。
 「うちの文書類は皆ワープ口で打つようになりました」と、OA化への実績を誇る役員達は多くなったが、一頁の書類がどのくらいの時間をかけて仕上げられているのかについての認識を持っている役員や部長達はまだまだ極めて少ない。自分でワープロに向かって文書を打ち込んでみれば、日本語の打ち込みが英文に比べてどんなに大変なものかが分かるはずだし、習熟するまでに要する時間が大変長くかかることも、また個人の能力差が大きいことも理解出来るようになるはずである。
 ワープロは操作を覚えることは簡単である。恐らく半日もあれば、操作のひと通りを習得することができよう。操作よりも文字を打ち込むという作業が問題であり、速度を上げることがより大きな問題なのである。一頁打つのに要する時間と、十頁程度打ち込んだ時の疲労の度合い、さらに専門のオペレーターとして一人前(一分間に百文字、A4判一頁を十分)になるまでの期間が問題なのである。巷に普及する機器に対する理解を、もう一歩進めて、真に日常に役立つ方式の研究が必要であることを、各企業の上層部がもっと理解して欲しい。
 ワープロで書類を作れるようになると、次にはそれらをデータベース化したいという要求が生ずる。データベースの周辺には、さらに深刻な日本語入力の問題が隠されている。データベースの検索に要する時間やコストはもちろん大事な要素であるが、それよりも、データベースを作り上げ、保守に要するコストがかかり過ぎることが最大の問題なのである。この点に対する認識が不足したままデータベースの構築に取り組み、挫折した事例があとを断たない。
 社内で使われるちょっとした書類を打つのに、A4判一頁(文字数にして1000字)でたとえ一時間かかっても実害はさほどではないが、毎日100頁もの文書類をそのペースで打たれたら、OA化どころではなくなってしまう。しかし現実にはその程度のOA化がほとんどであり、「急ぐから手書きでいいよ」といった冗談が笑えない。日本語の入力問題から目をそむけたままOA化を推進しても「やってみただけに終わってしまう。日本語入力の問題をもっと利用者が深刻に考えなければならない時期にきている。

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CADシステム普及の兆し(1987年1月9日)

 今年はいよいよ建設業界にもCADシステムが普及しそうである。
 つい先日、事務機メーカーのM社からプロッターのパンフレットが送られてきた。価格はA0判九十五万円、Al判八十八万円という。鉛筆が使えてその価格なら、建築CADのプロツターとして十分利用可能である。従来は、その大きさになると四百万円を覚悟しなければならなかったので、CAD用ソフトの良いものを見ても、もう一つ気乗りがしなかった。
 コンピューターとその周辺機器の価格は販売台数に密接な関係がある。仮に月産100台のものが四百万円だったとしても、月産1,000台になれば二百万円、月産10,000台になれば百万円を切っても十分に採算が取れると言われている。四百万円の商品と百万円の商品との間に品質の差はない。むしろ、量産による均質性の向上が期待できるので百万円の物の方が質が高い場合が多い。さらに、一社が価格を下げて潜在的な市場の掘りおこしを狙えば、競合他社も黙ってはいない。熾烈な戦いが繰り広げられ、価格はさらに下げられる。ここまでの筋書きは建設業界にとって極めて旨い。そうなった時、どのように実務に取り入れるかを考えるのは建設業界の甲斐性である。早い話が、品質が向上して価格は下がるが、サービスは低下する。従来なら電話一本で飛んできたセールスマンを期待することはできない。また設置時の開梱もテストも利用者が自ら行わなければ安く購入することはできない。自分からメーカーのショールームに出かけてテストし、労を借しまずに物の良否を判断しようとする姿勢が、利用者側に必要になる。
 一方メーカー側に対して一言付け加える必要もある。現在の鉛筆書きのプロツターには重大な欠陥がある。CADシステムで書いた図面を設計屋に見せると殆どの人が一様に首をひねる。まだこの程度かという安堵感を抱き、ついでに一言筆圧が低いことを指摘される。確かに手書きの図面に比べて、線が何となく弱々しい。鉛筆を回しながら書いていないからだと指摘した人がいたが、確かにそのような書き方をするプロツターを見たことはない。
 鉛筆を用いて線を書くという最も基本的な動作においても初級の技能者に及ばない。残念なことに、プロッターメーカーは利用者達のこの種の意見を無視し続けている。技術的に手が届かないとすれば、CADシステムが建設業界に普及する時期はまだまだ先の話になる。
 コンピューターシステムは随分長い間メーカーの都合から、利用者に不自由を強いてきた。利用者達の辛抱がコンピューターメーカーをここまで育ててきたといえる。パソコンの登場によってもようやく利用者が自らの判断によって最適なシステムを構築できるようになったが、周辺装置はまだまだ多くの課題を抱えているということをわきまえていてほしい。利用者とメーカーがそれぞれの領域でCADシステムの実用化の努力を積むための契機が百万円を切るプロツターである。

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