1990年 1月−12月

ソフトウエア開発の保守料(1990年12月6日)

 折角大金を投じて開発したソフトウエアが、実際に使われないまま埋もれる失敗が後を絶たない。開発の担当者は、相当の苦労の末にようやく完成にこぎ着けるのだが、実際に利用し始めると、開発時には予想もしなかった不具合が次々に表面化し、その都度手直しを強いられる。
 このような経験は、ソフトウエアの開発者は皆体験しているのに、はたからみると、何故初めにきちんと設計し、段取り良く開発を行わなかったかと思われる。担当者のやり方が余程まずいのではないかと叱責される。いまのところ、ソフトウエア開発という仕事は、それほど単純ではないのに手作業を主体としているので、使用し始めてから修正を伴うのはむしろ普通なのであって、当初から完ぺきな設計を行って利用者の満足を得ることは不可能なのである。使いながら少しずつ手直しを加え、次第に実用に耐えるソフトウエアに成長させるものだと、開発当初から計画を立てるほうがトータルの開発費は節減できるものである。
 実際には、ソフトウエアの外注にあたって、開発完了後の保守を真剣に取り上げる風潮はまだできていない。通常の契約文書には、一年間の無償保守を義務づける条項があって、開発者はいつでも不具合の手直しの要求に応じなければならない。その作業は一年で収束するわけではなく、二年も三年も後を引き、開発者はいつまでも続く手直しに音をあげる。
 ソフトウエア開発の保守を、建築工事の瑕疵と同様の取り扱いをするところに最大の原因がある。瑕疵が施工者の責任とされるのは、建設業の場合には常識である。ソフトウエア開発の場合、傷が目に見えるものではないので、瑕疵の有無を検分することができない。すべての道を通るテストデータによって確約する以外に方法はない。すべての道を通る場合の数は、天文学的な数値になり、実際には不可能なのである。
 ソフトウエア開発の場合、完了後の一年間は特に保守費用がかさむ。通常、開発費の二十%から三十%の保守予算を計上しておかなければ、利用者の要望を満たすだけの保守はできない。従って、開発の付帯条項に一年間の無償保守をうたうならば、開発を請負った企業は、相当の保守費用を前受金とし、発注者側は前払い費用として処理する習慣を定着させなければ、正しく保守を行うことが現実的にできないのである。従来は、不具合は開発者の責任ということで、簡単にかた付けられていたので、しまいには、開発者は耐えきれなくなって、逃げてしまう。開発者に逃げられたソフトウエアは、利用者が次第に使わなくなり、ついには粗大ゴミ同然の役に立たないソフトウエアになってしまう。過去に開発したソフトウエアのうちのどれほど多くのものが、そのような過程を踏んで駄目になってしまったか、知る人ぞ知る。ただし、開発担当者の名誉のために、公表されないまま、いつの間にか葬られているので、各企業のトップに、その実態はほとんど知られていない。
 そして、「今度はうまくゆく」という甘い期待のもとに、再三再四同じ失敗を繰り返しているのがソフトウエア開発の実態である。

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プログラム評定制度に疑問(1990年10月30日)

 パソコンの普及とともに構造設計事務所のコンピューター利用率は飛躍的に向上し、所員一人に一台のパソコンを持つ時代になった。
 構造計算書のほとんどは、プログラム評定済みの構造計算用プログラムを用いた分厚いプリントアウト用紙が占め、一貫設計に含まれない特殊な部分や二次部材の設計を除いては、構造設計者の目に触れることもなく、そのまま確認申請の書類の一部となって、行政の窓口に運ばれる。行政の窓口では、評定済みの証のあるソフトで打ち出された計算書は、簡単に図面との照合を行う程度のチエックをして、構造の審査を終わらせる。
 もともと、プログラム評定制度制定の目的の一つに、行政事務の簡素化というテーマがあったのだから、当局の意向に沿った方向に進んでいるのであろう。時に、評定のないプログラムを用いた構造計算書の場合には、プログラムの内容の説明を求められたり、甚だしいときには手計算でやり直しを求めたりする嫌がらせに類する仕打ちを受ける。
 構造設計者の中には、プログラム評定制度に反対の主張を持つ人も多いが、やむなく評定済みプログラムの購入に踏み切らざるを得ないような立場に追い込まれる。わが国の官僚は、この種のやり□には実に手慣れていて、職人気質を売リものの構造事務所も、いつの間にか評定プログラムの利用者になってしまっている。
 プログラム評定の実態は、評定委員の用意した例題を申請プログラムにかけて結果を提出し、実用に足るプログラムかどうかを委員が判断するわけで、わずかな例題でプログラムの不具合のすべてを洗い出せるものではないから、委員の判断に頼って、評定を終了させることになる。一方、利用者の立場からすれば、評定の有無にかかわらず、購入して初めて使用するパッケージについては、慎重に結果を考察し、独自に使用に耐えるか否かの判断をする。そして、もし結果に疑問がある時は、容赦なく開発者に問い合わせる。
 利用者の人数は、評定者の人数より遥かに多いので、モデルとなる建物の種類も多く、プログラムの不具合の発見される確率は高い。評定を受けたか否かがプログラムの品質に関係があるのではなく、利用者からの批判に応えて根気よくプログラムの改良を続けたか否かが品質を決めるのである。
 もし、構造計算に使用するプログラムが備えていなければならない条件を、評定委員の内規として整理されているなら、それを公表するべきであり、プログラム開発者の側で自発的にそれをチェックするから、市販のプログラムの質の向上に役立つに相違ない。
 プログラムの品質を維持するためにも、構造設計者の技術力向上のためにも、評定制度は無力であるし、ましてや設計された構造物の安全を保証するものでもない。プログラムというものは、単に構造設計のための道具であって、道具の良否は使用者が見極めれば良いし、道具を使った作品のできばえの責任は、構造設計者が持たなければならない。主権在民はわが国の憲法にも明確にうたわれている。最近、官の力が強すぎるのではないかと危惧する。

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まかり通る違法コピー(1990年10月5日)

 パソコンの普及とともに市販のソフトウエアパッケージの流通が活発になり、利用者層は格段に広がった。加えて、ここ数年の人手不足を補う手段のーつとして、コンピューターを前提とした業務の処理方式が浸透し、利用法にも各種の工夫が凝らされ、質の良いパツケージソフトウエアが次々に市場に登場している。パッケージソフトウエアを扱う流通業者も増え、それぞれ業績も順調に推移しているかに見える。ところが、一方でますますエスカレートする違法コピーの弊害が、随所に現れはじめ、社会問題化し始めている。
 市販のソフトウエアは、一台のパソコンにーセット使用するという前提で販売される。実際には、一人が二台も三台もパソコンを使用する時代なので、使用するハードウエアを固定するより、空いている機械を使えるソフトウエアが便利である。仕事は、一人でする場合より、何人かのチームを組んで処理する場合の方が多いので、一つのソフトウエアを数人が交代で使用することもある。時には、二人が同時に使いたい場合も生じることになる。もし手軽にコピーすることが出来るなら、コピーして二人が同時に一つのソフトウエアを使用する。これは、既に、違法コビーなのであるが、ほとんどの人は罪の意識なく、仕事をしていると思う。
 業務用のソフトウエアの多くは、簡単にはコピーが出来ないような仕掛けがしてある。その仕掛けを破ってコピーをとれば、多少の罪悪感を伴うのが普通の人間であろう。今では、大量の違法コピーを取るための機械が販売されていたり、中には、コピーを取って平然と他の人に売る悪徳業者までが現れ、一種の無法状態である。もち論、正しい使い方をしている善良な利用者が大半であろうが、一部の無法者のために、開発者はコピー防止のさまざまな手段をこうじる必要に迫られることになり、余分なエネルギーを浪費する。その結果、操作性が犠牲にされたり、甚だしいものはコンピューターウィルスを混入する場合さえ生じる。
 違法コピーは、なかなか実態を把握しにくいが、名のある大会社の社員に不心得者が多いのは、憂慮すべき事態である。ソフトウエアというものは、購入してから自分の手足同然に使いこなせるようになるまでに、ある程度の経験が必要である。慣れるまでは海賊版で、という軽い気持ちがきっかけだったかも知れない。購入してから、使用に耐えないことがわかった経験がそのような行動に走らせたのかも知れない。しかし、結局、罪を犯していることには変わりないし、盗みを働いた後の言い訳に過ぎない。
 既に、コピーを取った枚数分の買取りを要求する警告文を会社宛に送付した開発会社もある。外国製のソフトウエアの場合には、国際問題にも発展しかねないし、日本人の倫理感を問われる問題でもある。早急に、そのような不心得な社員がでないよう、企業の名誉にかけて具体的な対策を講じて欲しい。わずかな金のために、社会的な信義を問われ、著しく企業イメージを損なう前に、各社が自発的に善処するべき問題である。

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ソフトウエアの進歩状況(1990年9月7日)

 パソコンが現れ、建築の設計に利用されるようになって、十年近くの歳月が経過したが、その間、ハードウエアの機能の向上に追随して、ソフトウエアの機能も各種の工夫が凝らされ、当初のものからみると、格段に使いやすいパッケージが増えてきた。かつての汎用機時代のように、コンピューターだから多少の不便はあってもやむを得ない、人手ではできないことをしてくれるのだからと、コンピューターの能力に仕事の手順を合わせるように、我慢しながら使ってきた状態から、省力化の道具として、利用者の都合に合わせてソフトウエアが作られるように変化している。
 利用者側もコンピュータートを使うことが、多少なりとも省力化につながるならば、積極的にソフトウエアパッケージを購入し、利用する。従って、ソフトを購入してから実用に供するまでに、長い訓練のための時間が掛かったり、利用者マニユアルを丹念に読まなければ使い始められないようなものは、どうしても敬遠される。マニュアルを読まずにまず使い始め、次の動作が分からなくなったときに、マニュアルを繰ってみるような使い方が、普及している。
 コンピューターが、設計や、技術的なチェックのための実用的な道具でおリ必要なときに、必要なソフトを購入して直ちに使用することが期待されている。従って、用語の使い方や、基準の解釈などの曖昧な部分をなるべく残さないようなソフトウエアの作り方をしないと、利用者は解釈を間違えてしまう。それは、利用者の責任ではなく、ソフトウエアの開発者の責任と考えるべきであろう。「それは、マニュアルに書いててあります」という言い方は、古い時代のソフト開発者の逃げ口上であったが、今の時代には通用しない。
 コンピューターの利用環境が、いわゆるコンピューター室という実務から隔離された状態から、実務の現場に移行するにつれて、各業務の専門知識を備えた技術者がソフトを実際に利用する場合が多くなる。かつて、実務を知らない入力専門の操作者を養成してデータを入力させ、技術者は出力結果だけを見れば良いと、うそぶいていた人々の多くは、いつのまにか実務そのものの技術からも遠のいてしまうようになってきた。技術というものは、日常の生活に密着してこそ、新しい発想が生まれるわけで、実務を他人任せにしていると次第に技術的に退化する。パソコンもこまで実用化が進めば、これを避けて通ることはできないのだから、利用者側も積極的にソフトウエアに対する注文文を出して、使いやすいソフトに育て姿勢が、大切である。
 現在の市販のパッケージは決して完成されたものではなく、発展途上の商品である。こう直せばより使い易くなるということが分かりさえすれば、直すこと自体はさほど難しいことではない。ある程度まで完成度が上がったソフトウエアは、どう直せばより艮くなるかということが最も難しい所で、そのためにも、改良の要求は貴重な情報なのである。

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ニューメディアの現状と未来(1990年7月31日)

 七、八年前、NTTが大々的にキャンペーンを張り、未来の情報通信を担うニューメディアと期待されたキャプテンシステムは、このところひところの勢いは影を潜め、すっかり静かになってしまった。
 TV画前に映し出されるキャプテンシステムの文字は比較的大きいので、一画面当たりに表現できる文字数としては、それほど多くはない。しかし、少ない文字数でも、背景の絵と上手なメニュー構成の組合わせによっては、視聴者の受ける情報量は豊富になる。もともと、情報の価値というものは、受け手の状態によって変化する。同じ文字を読んでも、初めて接した情報と二度目とでは値打に格段の差があるし、ある人にとって貴重な情報が、別の人にとっては全く無価値であっても不思議ではない。
 キャプテンシステムの情報の提供を行うのは、専門の情報提供会社である。いわゆる二ューメディア・サービス会社は、この七、八年の間にNTTの肝煎りで、全国各地に五十社以上も設立された。全国各地に作られた意図は、地方の行政と組んで、地方自治体から住民への口—カルな情報提供を事業の主体にしようとしたのであろう。その発想そのものが間違っていたとは思えないが、すべてのニューメディアのサービス会社が、今では、赤字経営に苦しんでいる。もっとも、決算書の表面は、ほんのわずかの黒字を計上しているところが多いから、NTTの担当役員をにじめ幹部社員は、それほど深刻に感じていないかも知れないが、経年の変化を見れば、事態は極めて深刻なことがわかる。
 この手のシステムは、豊富な情報源の中から利用者が必要とする情報を、いつでも取り出せるように準備しておくことが大切である。ニューメディアのために特に情報を準備するのは、全体のせいぜい数%程度にとどめ、大半は、他のメディアと共通の情報源からの転用を可能にすることを考えなければ、とても、一般の利用者がわざわざキャプテンシステムをアクセスする気が起きるほどの情報を、用意することはできない。
 経営を苦しくさせている大きな原因は、ソフトウエア開発の費用が高価に過ぎることにある。その是正のためには、ソフトウエア開発のための情報を広く公開して、地域ごとに必要なソフトを、各地で自由に開発できるようにするべきである。現在は、NTTの関連の特定の企業のみが、一種の利権をもって開発を行っているが、開発会社の利権を守るよりも、システムそのものの普及を図ることが先決であろう。
 全国的にどこの情報を、どこで得ても、均一な料金である点は、キャプテンの特徴である。東京への一極集中の要因の一つは、情報の得やすさにある。他の物価に関しては、地方都市に比して、東京ははるかに高いが、情報の量が圧倒的に多いので、事業に必要な情報を得るコストだけは安い。地方ヘの人口の分散を図るには、情報の取得コストの低減と、取得可能な情報量の確保が必要である。その意味からすれば、キャプテンにかける斯待は大きい。
 NTTの首脳陣が、目先の利益の迫求のみに追われていては、国家百年の計が立たない。株式会社とはいっても、普通の民間企業ではないのだから、遠い将来を見通した事業計画を打ち出して欲しい。

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期待と誤解、思込みの落差(1990年7月2日)

 コンピューターに関連する用語は、人によって解釈が異なるものが多い。中には、用語の意味を正しく理解しないまま使っている人もいて、誤解されたまま人から人へ言葉だけが普及してしまう。本当は耳学問でなく、体験の蓄積にもとづいて話をして欲しいのだが、次から次に新たな用語が編み出されるのと、漠然とした解釈のままでも使っているうちに、いつの間にか解ったような錯覚を抱くこともあって、誤解と思い込みが多い。
 道具として自分自身が使うコンピューターと、自分の身代わりをはたしたり、さらには自分自身に出来ないことまでをもやってのけることを期待するコンピューターとの区別がついていない人が目につく。実際にコンピューターを使った経験がなければ、その区別はつかないのはやむを得ないと思うが、あたかも、現実に身代わりを果たせるシステムがあるように話をされると、聞いている人は、つい騙されてしまう。 
 CADは、ここ数年、急速に普及した。ただし、販売された台数に比して、実用効果を上げている台数は微々たるものである。現在のCADシステムは、利用者が長い年月をかけて慣れなければ使えるようにはならない。金さえかければ良いCADシステムが手に入るというものではない。
 人工知能のシステムそのものは、まだまだ、研究段階である。人間が育つ過程と対比してほしい。赤ん坊に対して、毎日親が語りかける。赤ん坊は、親からの様々な語りかけを受けて、次第に知恵として定着して行く。一回話せば終わりということではなく、何度も何度も繰り返し話をし、自分でも口にも出しているうちに、いつか、自分自身のものになる。そして、二十年経って、やっと成人と認められるようになる。人工知能と呼ばれているシステムは、生まれたばかりの赤ん坊であって、決して成人した人間ではない。しかも、自分の命に代えてもというほどの愛情を持って育てるべき親のない、五感の不自由な、知能も人聞に比べれば相当に遅れていると考えれば、過度な期待は抱けまい。人間でさえ、二十年かかる。ましてや研究途上の人工知能を相手に教育をして二十年か三十年後に、たとえ一芸でも身につけさせることができたら、拾い物ではないか。人工知能システムの売込みをしている人達は、言葉たくみに、あたかも成人した人と同程度の知能を持っているかのような錯覚を、利用者に与える。スーパーコンピューターは、複数のコンピューターの並列処理によって処理速度を向上させようとするコンピューターである。しかし、効率よく並列処理をさせるためのプログラムを作り上げることは、大変難しい。今のところ、スーパーコンピューターの能力を発揮するプログラムはできていない。しかも、真に、スーパーコンピューターを使わなければ、解決できない問題はそうそう見つからない。たいていの問題は、パソコンで始末がついてしまうからである。CAD、人工知能、スーパーコンピューターは、だまだ実用からは程遠い。そのように理解した上で研究するというのなら、それだけの値打ちのあるテーマではあるが。

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捨てられて行く専門技術(1990年5月30日)

 二十年も住むと、家のあちこちに傷みがきたり、薄汚れてきたりしてくる。少し手を入れようと思い、町の大工さんに修理を頼んだ。壁の吹き付け、門扉のピポツトの取り替え、雨戸のべ二ヤ取り替え、金物類のペンキなど、いろいろと細かいところで気になった所の修理は、さすがに丁寧な仕事をしてくれた。大工さん、左官屋さん、ペンキ屋さんは、いずれも年輩の職人さんでひところなら弟子の四、五人を引き連れて大仕事を引き受ける親方、といったところであろうか。ともかく、気持ちのよい仕事をしてもらった。
 ついでに、畳表の裏返しを頼んだところ、畳屋さんがたまたま忙しい最中だったので、雑用係のおじさんが畳を車に積んで作業場まで運び、そこで裏返しをした畳を受け取って、再び家まで運んで敷き込んだ。なるほど、手の足りないときには、なかなかうまいやり方と、感心したが、敷き込んだ畳が何かしっくりとこない。ほんのわずかの隙間や段差が、気になり始めると段々大きく見えてきて気持ちが悪くなる。仕方がないので、電話帳を繰って、近所の畳屋さんに電話をしてみた。運良く、年輩の親父さんが、気さくに飛んできてくれて、切り通し一本を使って下敷の畳表の切れ端を外したり、かったり、小一時間もかけてそれこそ見違えるように、気持ち良く敷き直してくれた。裏返しの時でも、畳を外す時に、隙間の点検をしておくもので、それを情報源として、裏返した時にかい物をしておけば隙間が開かないと、ぽつりと言った一言は、妙に説得力があった。
 要するに、各々の専門職に、身に付いた作法があって、その作法にかなった仕事をすると、自然に必要な情報が得られて、無駄のない良い仕事が出来る。素人は、見よう見まねは出来ても、肝心な情報を見落としてしまうので、どこか締まりがない。人の心を打つような職人芸を、どのように次世代に継承して行くか。既に、過去の親方と弟子の関係を追い求めても、弟子の成り手はなくなっているのだから、全く別の、新しい方法を考えなけれならないのだが、これがなかなか難しい。再び畳を例にとれぱ、もともと、畳屋さんの芸は、木造家屋が平面的に正しい矩形に施工されていない事、畳下の板張りか、若干の起伏を伴ったり、板がたわんだりして平でないので、現場合わせの加工を余儀なくされていたことから生まれた芸であるから、もっと工場の機械加工の比率を高め、現場の施工精度を上げれば、畳職人の芸は、不必要になるかも知れない。あるいは、畳という素材を利用する限りにおいては、現場での調整は必須なのかも知れない。技術の進歩は、前時代の技能を不用にし、捨て去って行く。その交代期には、旧世代の貴重な経験を継承出来ないままに、新たな課題として研究し始めるという矛盾も生じる。
 コンピユーターを利用して、生産性の向上を図ろうとするとき、従来、何気なくしてきた人の目によるチェックが抜けて、それが大事故の原因になったりする。従来、人手によって処理されてきた仕事をコンピューターに置き換える途上に、その類の問題が多い。

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建築確認申請の「OA化」(1990年4月10日)

 建設省の音頭とりで、審査の精度向上と、審査の効率化、迅速化を目的とした建築確認申請業務のOA化が、平成四年度完成というかなり速いぺースで進められている。システムは、平成元年度稼働予定の自動処理システムと、稼働年度は明示されていない対話型処理システムに分けて、検討が進められているとの事。
 自動処理システムは、現行の申請書の記載項目に若干の追加変更を加えた程度の申請データを入カデータとして、審査対象法令の抽出と、申請建物ごとの個別審査のためのチェックリストの作成を行う。審査対象法令の抽出には、知識データベースを作成しエキスパート・システムの手法を応用して自動抽出するという。チェックリストは、申請書に記載された内容を、自動的に審査項目の欄に転記して作成される。その際、容積率、建ぺい率、斜線制限などの数値による判定の審査は、自動的に行い、判定結果を記載する。また、集団規定の審査に関しては、建築計画概要書の配置図に、高さ情報を追加して、CADデータとして申請させる。申請者用に、申請書作成のための簡易CADプログラムを申請者に配布するとのことである。ほぼ以上のようなシステムを建設省、建築センター、地方行政、民間の代表者による、検討委員会、ワーキンググループによって、平成二年度中には、システムの基本設計が決まり、平成四年度から実施されるという。
 コンピユーターは確かに進歩した。さまざまな分野で、省力化の目的のシステムが導入され、実用に供されている。しかし、時代の先取りと発表される種々のシステムの陰に、それらのシステムを実用にするために、省力化された人々の何倍もの人数が必要になり、その人達の、目に見えない働きによって辛うじて動いているシステムがどれほどの比率になっているか、その事実は意外に知られていない。
 コンピユーターは、いつの間にか我々の日常生活の中に浸透してきている。JRの緑の窓口や、銀行の窓口業務にコンピューターが活躍していることは利用者にも想像出来るが、これらのシステムがどのくらいのソフト開発費と年月を掛け、導入費用と共にシステムの運用のための労力が掛かっているかは、なかなか知ることが出来ないが、普通の企業では全く採算の取れないほど、多額の費用と年月を費やしていることは
 間違いない。我々が耳にしたり、目にする諸々のシステムのうち、事実上失敗した例に比して、成功した例は極めて少ないのが華々しく報道されるコンピューターのシステムなのである。
 確認申請のOA化というプロジェクトは、国及び地方行政府の仕事であるから、予算の有るに任せて大盤振る舞いをして、結局得る物がなかったという結果では、国民はたまらない。コンピユーターメーカーやソフト会社の中には、エキスパートシステムや、CADが今や普通に使えるかのような言い方をする人が多いが、新聞や雑誌に報告されているようなシステムのほとんどが、未だ研究中で実際に役に立つには、この先何年もの試行錯誤を繰り返さなければならないシステムだということを理解した上で、プロジエクトを進めて欲しい。

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ソフトウエア技術者の評価(1990年3月19日)

 コンピユーターの普及と共に、いつの間にか、三十万人とも五十万人とも言われる程ソフトウエア開発に携わる人々の数が増えてしまった。増えたことは、これから開発しなければならないとされるソフトウエアの量を考えると、大歓迎であろうし、今後もさらに増やしていかなければ、とても需要に追いつかないと、一般に言われている。
 ソフトウエアの開発技術者は、経験のある機種、OS、プログラム言語によって技術の大体の領域が分類される。更に、システムプログラムの開発に従事してきたか、アプリケーションプログラムの開発を行ってきたかによっても、その技術者のカバーする領域が何となく浮かび上がる。もっとも、アプリケーションの領域は幅広い。建築、土木だけを見渡しても企画、設計、積算、施工という工程の流れによって、技術領域が異なるし、その中の建築の設計と一口に言っても、意匠、構造、設備に分かれる。さらに、構造が構造計算、構造図、躯体積算に分かれる。そして、その各々に専門家がいて、その専門家が日常的に利用し、必要とする道具の類は気が遠くなるほどの数になる。だから、一概に建築のアプリケーションソフトを手掛けた経験があるといっても、技術の内容は多様に分かれるから、もう一歩細分化した表現をしないと、技術者個人の経験を次の仕事に生かすことは難しい。技術の領域の他に、能力の評価方法が極めてあいまいである。
 経験年数が多いほど能力が高いとされているが、これは誤りである。
 二十年前に、ある工場に出かけてそこで見た光景は、一台の機械に数人の作業員が取り付いて仕事をしており、工場全体から受ける活気に圧倒される思いがした。今、同じ工場では、数台の機械を一人で動かしており、何か、閑散とした感じを受ける。それでいて、その工場の生産性は、当時と比較にならないほど向上している。それにしても、残りの人達は、一体どこに消えてしまったのだろうか。同じ光景の変化は、建設現場にも見られる。日本全体で考えれば、働く人々の数はそれほど変わっていないわけだから、現場の作業員の数が著しく減って、その分、オフィスワークが増えたことになるし、オフィスワークをどんどんコンピユーターに置き換えようとしているから、結局ソフトウエア開発技術者が増えた勘定になる。
 ソフトウエア開発という仕事は、開発されたソフトウエアの出来映えの善し悪しが、利用者の仕事の効率に大きな影響を与える。水準に達しないソフトウエアは、使わないで捨てた方がよい。しかも、過去に開発されたソフトウエアの大半が水準以下であるにもかかわらず、その問題を深く追求しないのは、一種の失業対策の意味合いが強いからなのであろう。技術者の能力を計る尺度に、どの位うまく作るかという最も大切な要素を省いているのも、そのように考えれば、納得できないこともない。ただし、真に大切なソフトウエアを開発する時には、その点をきちんと理解した上で、技術者の選択をしなければ、役に立つものが出来ない。量から質へ、議論の焦点を移さなければならない時が来ているようである。

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OA化と専門家職能の変化(1990年3月12日)

 OA化の進捗につれて、あらゆる業界における専門家の役割が、少しずつではあるが変化している。従来、専門家の仕事の一部であった単純作業が、コンピユーター処理に移管され、専門家でなければ出来ない仕事に専念できる環境が整ってきたからである。各省庁の行う専門家を認知するための国家試験制度は、年々増え続けているが、試験の内容は仕事の実態の変化を反映していない。そろそろそれぞれの専門家に期待する能力をもう一度見直し、専門家か素人か区別の付かないような専門家のための国家試験は撤廃する時期がきているのではなかろうか。
 専門家の一例として、税理士業務を考えてみよう。従来の税理士の仕事のうち、計算の間違いを見つけ出す作業が大きな比率を占めていたと思うが、コンピューターを使い始めればその作業は大幅に軽減される。その分、税務の依頼者の立場に立った最も良い申告書を作ることに、頭を使って欲しい。最も良いという意味は、単にその年度の税額を最小にするというだけではなく、税金を支払った金額にほぼ比例して、将来のための蓄積もできるのだから、せめてニ、三年先まで考えた最善の道を提案して欲しいと、毎年その時期がくる度に思う。現実には、今の税理士には、コンピューターに出来る程度の仕事しかしてもらえていないし、能力も持ち合わせていないのではないかと諦めて、自分で考えるより仕方が無い。ほとんど、専門家としての機能を失っていると思う。
 一級建築士の仕事についても、全く同様のことがいえるはずである。特に、構造設計の領域では、コンピユーターが使われる頻度が大変高くなってきた。コンピューターを利用することによって、構造計算書や構造図を作る手間は、大幅に軽減されることになったが、それで構造設計家の生活が楽になったと考えては、いずれ設計料を叩かれるだけの結果になってしまう。従来、したくても出来なかった二案の比較や、より良い設計の追求に専門家としてのエネルギーをもっと注ぐべきなのである。構造設計家の仕事のうち、構造計算書を作り、構造図を書き、躯体積算をすると言うのは、あくまでも手続き上の仕事であって、本来は、依頼者に代わって、その構造物の目的に見合った安全性と経済性のバランスを見いだすことにある。手続き上のことは、単にキー操作のうまい、構造設計とは無縁の人々で十分消化できるのだから、構造設計家が、手続き上の仕事をこなすだけに終始していれば、近い将来、コンピユーターとその操作者達に仕事を奪われるだけの結果になってしまう。現に、構造事務所の若い所員達はコンピューターの操作は実にうまい。しかし、稼ぎのための操作に追われて構造の勉強がおろそかになったり、現場を見る機会が少なくなって、構造設計の専門家として将来自立できるだけの修行が出来ていない。
 産業革命によって、駆逐されてしまった中世の職人達と同じ運命をたどるか、それとも、コンピユーターを道具として使いこなし、先進的な構造設計家の領域を作り上げることが出来るか、今が、ちょうど分かれ道である。

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新分野での専門職の育成(1990年3月7日)

 建築、土木のあらゆる業種について、次第に専門職の高齢化が進んで、その対策が急務と言われている。もともとこの業界の専門職の多くは、親から子へ、親方から弟子へと技術が伝承され、弟子の養成には長い年月をかけることが当然とされてきた。経済の高度成長とともに、この業界の仕組みにも変化をきたし、需要と供給のバランスが崩れて、旧来の施工方法ではあらゆる職方の人数が不足して、需要に追いつけなくなった。極端に増加する需要に対処するために、工法自体を大きく変えて工場生産の比率を高めたり、専門職でなくても仕事をこなすことの出来る道具類の開発を行うなどの研究を積極的に行っており、次第にその成果を発揮し始めている。
 高度成長期の後に訪れたオイルショックを契機とした安定成長期には、需要が極端に落ち込んで、旧来からの職種の中には、業として成り立たなくなって、やむなく店を閉めてしまうところも出て、ますます昔ながらの職人の数が減少した。この二、三年、異常な建築ブームが突然訪れたが、専門職が、その人数を減らしてしまって、ほとんど需要に対処できない状態が続いている。業界全体は飛躍的に成長しているにもかかわらず、各職方が取り残されているということは、旧来のシステムから新たなシステムヘの切り替えがかなり進んだと見ることもできる。その一例は、コンクリートの金ゴテ直押えに見られる。かつては、左官工事の一つの部位の仕上げ方法としての位置づけであったが、需要の急増に対処するために、独立した職種としての専門職が養成され、同時に専門職の使用する道具の開発と相まって今日の床仕上げ、というより床磨きのスペシャリストが誕生した。
 別の例は、建築の構造設計におけるコンピューター操作者である。業としての構造設計は、戦後登場したわけであるから、歴史は浅い。昭和三十年代の半ばに、コンピユーターによる構造設計法が提唱され、四十年代のソフト開発期を経て、五十年代にパソコンの普及が始まると、一気に構造事務所にコンピューターが導入された。コンピューターは使い慣れるに従って、利用法が高度になる。そして、次第にキー操作が複雑になって、キー操作の専門職が必要になる。専門職が操作するのと、構造技術者が自身で操作するのとでは、能率に格段の差を生じる。業として、構造設計が成り立つためには、構造設計者とキー操作者がペアを組んで仕事をしなければならなくなってきている。その事務所で使用している構造設計用のソフトウエアの動きを熟知したキー操作の専門家の誕生は、構造設計そのものの手法にまで影響を及ばし、旧来の構造設計技術者の存立にさえ、かかわる問題にまで発展する勢いである。
 新しい職種は、旧来からの職種に比して、効率に格段の差がなければ独立の業として成立ち得ないし、他の職種に比して給与水準がはっきりと良くなければ、その専門職になり手もないだろう。それらが成立する新しいシステムを次々に生み出す努力が、業界と各職方の人口を増やし、次世代への道を開くことになる。

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