1984年 5月−12月

パソコンの評価 (1984年12月)

 パソコンが世に出てから、たかだか四、五年を経過したに過ぎない。しかし、その普及と進行の速度はすさましいばかりの勢いを見せ、年間百万台という膨大な数のパソコンが生産され、世に送り出されている。価格は年々低下し、機能は新しいモデルが発表される都度大幅に向上し、二年前の新機種は今や見る影もないほど古びた時代遅れの機種に見える。
 建設業界におけるパソコン利用の浸透度は、他の業界と同じように、いつの間にか各社の各部署に設置されている。導入したその日から、実際の業務に利用し始められる手軽さは、価格が低いこともあって、かつての汎用コンピューターのように、半年も一年も前から導入準備に狂奔させられることもない。コンピューターがようやく実用化し、建設業の真に役立つ道具として完成されつつある姿をパソコンに見る思いである。
 しかし、パソコンに対する評価は必ずしも正しいものばかりではない。むしろ、誤解が多い。
 世の中の物事に対する評価は、ある一面からの見方を強調し過ぎ、誤解することがある。パソコンに対する一部の間違った評価もその類である。「大型機と比較すると機能的に見劣りがする」という話をよく耳にする。コンピューターに処理させるためのデータを完全に準備し、その段階からストツプウォツチをもって競争させれば、パソコンは汎用大型計算機にはかなわない。しかし、その前提となるデータを完全に準備するための作業を含めて競争させた場合、パソコンが大型汎用機に劣るケースはそれほど多くなくなる。
 「パソコンは容量が小さいから……」という評価もしばしば耳にする。確かに何千節点もの複雑な構造物を三次元的に一気に解いてしまうというテーマに対しては、パソコンの容量は不足している。しかし、通常そのような大きな構造物が、各企業の担当者の前に、現実のテーマとして与えられる頻度は極めて少ない。まして、そのようなテーマに対してさえ、データ作成に際しては、はるかにパソコンの使い勝手が良く、解くことそのものはもし社内に汎用コンピューターがなかったとしても外部の計算センターを利用すれば済むことで、その方がはるかに安価に、しかも手早く仕上がるのである。
 汎用コンピューターをパソコンに置き換えた場合、最も困るのは汎用コンピューターを作っているメーカであり、これを既に導入し、長いことそのお守りを仕事としている各企業の電算センターの人々だという皮肉な見方が案外当たっているかも知れないのである。
 これから先バソコンがどれほど進歩するかということはさて置いて、現在販売されているパソコンが既に立派なコンピューターであり、汎用コンピューターに比してプログラムの書き易さ、画面表示機能の豊富さにおいて、はるかに優れたコンピューターであることを認めたがらない人々が案外多い。しかもそれらの人々が、機種決洪定権を握っている場合が多く、建設業界も例外ではない。
 もともと、建築家という職業は、世の中の現象の本質的な姿を素直にとらえることが得意な職種で、表面的なことにとらわれることなく、数多くの異なる意見をもつ人々の間の意見調整を行いながら、本筋に向けで全体を進め、目的を遂げる役割をになうことが多い。
 パソコンは安価であるにもかかわらず対話機能に優れ、ソフトウエア開発も容易である。パソコンを適所に配し、使いこなすことにより、来たるべき情報化社会の基盤を築くべき時がきている。

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光ファイバーの需要開拓 (1984年11月2日)

 高度情報化社会に向けて、産業界全体が一斉に走り始めた。パソコン、ワープロ、ファクシミリを軸とする職場のOA化は、そろそろピークを迎えようとしている。OA化の総仕上げには、INS(インフォーメーション・ネツトワーク・システム)、LAN(ローカルエリア・ネツトワーク)による通信網によって各機械を接続し、機器間の自由な交信を行うことを可能にする必要があるという。そしてその先に高度情報化社会が待つているという筋書きである。INS実現のためには、高品質で大量、高速な通信を行う媒体が必要になる。従来の電線に代わって、光ファイバーの利用が急速にクローズアップされてきた。
 光ファイバーによるデータ伝送は目下のところ、ようやく実用化が始まった段階で、大量のデータ伝送の需要を吸収する必要のある幹線路には経済的にも効果を発揮し始めているが、支線路やLANにおける伝送路としては、まだまだ需要と経済効果のバランスが悪い。現在光ファイバーの実用上の問題点として、分岐方式、始終端処理等における装置のコスト高の他に、光ファイバーの全体需要がまだまだ小さいために量産によるコストダウンが難かしいことが挙げられている。大量伝送の性能としては既に品質をも含めて、十分実用に耐え得る域にまで達しており、需要の飛躍的拡大が見込めれば、経済効果を発揮し得ると見てよい。
 光ファイバーの将来における大幅な需要を通信系だけに依存して、コストダウンに結びつくに至るるか否か。むしろ光ファイバーの新しい需要の開拓をーつの課題として提唱したい。エネルギー問題は、ひと頃の石油危機が叫ばれた時代から見ると、すでに解決したような錯覚を覚えるほど沈静化しているが、石油を燃焼して電気を起こしたり、原子燃料を電気に変えることによる公害問題は、依然として抱えたままの状態で、省エネの実践と不況の進捗によって、表面化をおさえているというところが正直な、ところであろう。エネルギー源を新たに求めるというテーマと現在利用されているエネルギー取得のため、地球上の微妙なバランスを犠牲にしないようにするという二つの大きなテーマに取組まなければならない。
 高度情報化社会におけるエネルギー問題という建築界における未来の大きなテーマに取り組む契機を、光ファイバーという材料が与えているのではないか。光ファイバーを使用した通信系を建物の中に如何に取り入れるか。それによって建物の利用形態にどのような変革をもたらすことになるかという第一のテーマとエネルギー問題に光ファイバーを有効に利用する手段が見いだせるか否かという第二のテーマにそろそろ取り組む時期が来ているようである。
 第二のテーマは、具体的には太陽光を室内の照明等に利用するために、光フアイバーによるガイドシステムを作り上げることができないだろうかということである。すでにオイルショツクの時代に太陽光利用システムについての検討が行われたが、その後の石油事情の変化によって、すっかり忘れ去られたテーマになっでいる。しかし、今後大都市への人□の集中は 更に進むと考えなければならないし、その場合に、日影となる室の割合は現在をはるかに越えるようになることが予想される。裏側の部屋は一日のうちの何時間かの日照を得ることができれば、住む人はにとつてより良い環境が得られる。クリーンなエネルギーを利用した未来の高度な社会にふさわしい環境を目指すとともに、通信用光ファイバーのコストダウンにも寄与するという一石二鳥をねらうテーマとなり得ないだろうか。

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高度情報社会に向けて (1984年10月3日)

 高度情報社会への移行が叫ばれ、今すぐにも突如として、そのような社会が出現しそうなムードに、あせりを感じさせられる。建設業と高度情報化社会とのかかわりは一体どのようなことになるのだろうか。
 昭和三十年代の後半から四十年代にかけ、日本全土に建設ブームが捲き起こった。人材不足が各所に生じ、各大学はこぞって建築土木学科を創設した。そのころ、それらの学科の卒業生達は全国的に年々増え続けた。学生達を受け入れる企業側はどこも大量に新人を採用し、それでも足りない程の仕事が続いていた。しかし、オイルショックを期に事態は一変し、これらの卒業生達は世に溢れることになった。大学の定員は徐々にでも減少しているかといえば、一向にその気配を感じられない。大学経営の立場からすれば、いまさら学生の定員を減らすことは考えられないことなのであろう。建設会社は各社生き残りをかけて鎬(しのぎ)を削りはじめている。生き残るためには、他社のシェアを食うか新事業への転身を図る以外にはない。現代のように物が過剰の時代には、質の良い物を少量ずつ生産することが最も効率が良いはずである。
 そもそも建築物は代表的な一品生産品であり、製品の質を高める努力を行えばいくらでも成果の得られる対象物である。しかし一方に経済原理の一つである競争の原則が厳然努と存在する。遊んでいるよりは少々赤字でも仕事をした方が苦しい一時を越すことができると考え、価格競争が始まる。価格を落せば品質が落ちるのは自然の原理である。規定の仕様には幅があり、その幅の範囲でも品質はどんどん下る。
 今、建設全般にそのような危機が見舞っている。にもかかわらず、相変わらず建築土木学科の卒業生達は就職をする。各社とも二十年先を考えた企業ポリシーを若者達のためにも打ち立てる時期にきている。情報社会を目指し、世の中全体が躍動しようとしている時に、一人建築だけが上物だけを作つていたのでは、いつか仕事がなくなってしまう。だからといって、皆で第二電電を作ろうとするのはいかにも畑違いの感がする。もっと身近なものにその題材を求めるベきで、例えば現在計画中の建物の、利用者の立ち場に立って、十年後、二十年後にこれらの建築物がどのような環境のもとで利用され、住む人々は日常業務を如何に処理しているか。それにふさわしい設計を行うことから取りかかるべきであろう。
 高度情報化社会を象徴する社会生活の一つに、在宅勧務が普及するといわれている。自宅付近の事務所に本社とつながるコンピューターシステムを置き、仕事の指示はコンピューターを通じて在宅勤務者に伝えられる。完了した仕事は、その場から会社に電送されるという想定である。
 では、そのような勤務に適しだ住宅は現在の住宅と同じ機能、同じ設備で、はたしてものの役に立つのだろうか。現在設計中の郊外に建つマンションはそのような勁務形態に耐えられるプラン、設備を有しているか否か。更に、建設会社の業務はそのような勤務形態に順応できるだろうか。今からモデル住宅を建設し、企業形態をこれにふさわしく変えることが可能か否か実験を試みるほどの姿勢がなければ建設業界そのものが時代から取り残される羽目になり兼ねない。
 高度情報社会は、コンピューター会社とその関連業によってのみ作られるものではなく、社会全体がそのような変化を求めるところから次第に移行するものである。シビルエンジニアリングの担い手としての再認識の必要を痛感する。

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コンピューターによる弊害 (1984年9月4日)

 いつの間にか建設業務のあらゆる部分にコンピューターが利用されるようになり、建築にも情報化時代が到来していることが実感として感じられる。
設計の段階には、日影図の作成や構造計算書の作成等コンピューターの利用が常識化しでおり、場合によっては設計図面の一部をコンピューターによって作成することも普及してきた。また、積算業務にコンピューターを利用ずる事務所や建設業が次第に増加しており、とくに、設計変更の増減計算には、その処理の速さが喜ばれている。
 このようなコンピューター利用の普及は年月とともに着実に利用範囲を拡大しており、次々に新たな領域への応用が研究され、実用化が進んでいる。コンピューターの普及そのものは建築界にとって極めて有効なツールであるからまことに結構なことであるが、ぽつぽつその弊害が表われ始めている。
 コンピューターのツールとしての性能はせんじ詰めれば、繰り返し計算の速さと確実性にある。この点だけはとうてい人力の及ばないところであり、この特徴を利用してさまさまな応用分野に対じてプログラム開発が行われてきたのである。プログラムの組み方によっては判断をコンピューターに行わせることも可能である。しかしその判断は人による判断のように判断を行う人によって変わったり場合によっては同一人物でも日によって変わるということはない。条件が同じなら常に同じ結論が出る。一見それが当然と思えるが、プログラムに盛り込まれていない条件が、実は世の中には数多く存在するのである。コンピューターに馴れてくると偶々プログラムに判断の為の条件として取り入れられたもののみが判断基準となって結論を出しているということを、つい忘れてしまう。それが絶対に正しい判断であるとの錯覚を抱いてしまう。これは社会的にみても大変恐ろしいことである。人間は仕事をコンピューターにまかせはじめると、その分野の判断能力が低下する。
 かつて、計算に要する手間を省くために、計算図表を作ったり、便覧の略算式を参照しながら、自然のうちに工学的なセンスを養っていたものである。設計を進めながら、その建築物の完成する姿を思い浮かべ、そこに作用する様々な外的条件を想像し、その時の建物の状態を予想する事に務めた。「こんな時にこの部分は大丈夫だろうか」という素朴な疑問が、設計者の技量を育てる糧であり、その疑問に対する解答を得るために、今考えれば気の遠くなるような計算をも嫌わずに行った。そして計算の労を少しでも省くために種々の仮定の設定と容易なモデル化を考案した。設計の生産性という意味からすれば決して能率の良い方法とはいえなかったかもしれない。しかし、そのよろなプロセスを通じて建物に設計者の思いを込めることができたのである。
 今、コンピューターは極めて能率よく計算作業を行う。図面すら画いてしまう。設計者が建物に取り組んでいる時間が極端に短くなっている。若い設計者に設計という仕事の本質的なことをどのようにして教え、研修の場をどのような形で与えたら良いかを真剣に考えなければならない時が来ているのではないだろうか。確かに若い人々はコンピューターの操作は速い。驚く程の速さでキーボードを叩く。そして、その後は一気呵成にコンピューターが設計を「終わり」にしてしまう。設計者の頭の中に何が残るのだろうか。
 コンピューターの効用を否定するつもりは毛頭ないが、技術者はコンピューターをツールとして取り込んだ仕事の進め方を研究する時が来ている。単に、コンピューターの操作者としてではなく。

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第五世代コンピューター (1984年8月2日)

 第五世代のコンピューターの開発を旗上げして既に三年目を迎える。第五世代のコンピューターは、推論マシーンを作ることだという。現在のコンピューターの最も苦手とする領域の処理を効率的に行うことのできる機械を開発しようということである。目標は十五年先であるから外随分先の話だとも思えるが、十五年などという時間はアツという間に過き去ってしまうはずである。
 第五世代コンピューターがわれわれの目の前に置かれたとした時、それをどのように使いこなしにらよいか、今から考えておかなければならない。過去のコンピューターの開発には、建築業界は全くかかわりを持だなかった。単にコンピューターメーカーにとって都合の良い利用者でしかなかった。利用領域も構造設計のうちせいぜい計算部分に利用する他は事務処理に用いたという程度で、建築業界に本当に役立つという実績は極めて少ない。実績は少なかったが、ともかく普及した。メーカーにとつてこれ程良い顧客はなかつたはずである。
 建築には、美観とか使い勝手、住み心地という数値で表現し難い要素が多分に含まれている。二つの設計を前にして、どちらが優れた設計かを、コンピューターに決めさせることは極めて難しい。しかし、優れた建築家が十人寄って選択を行えば明らかに優劣が決まる。ほとんど十対ゼロに近い差が付く。それは一体何故なのだろうか、建築家というカテゴリーに入る技術者のもつ特性があるはずである。その特性を分析すれば、現代一流の建築家像が浮かび上がってくるはずである。第五世代コンピューターを用いれば建築家の感性を備えたエキスパートシステムを作り上げることが出来るかも知れない。経済紙などで、日本式経営法が欧米において見直されているという記事をよく見かける。欧米の経営者がツアーを組んで日本の企業を見学したり、経営者や経済評論家の話を聞いて帰ってゆく。日本的経営法のポイントは、従業員の企業に対する帰属意識の強さであり、企業のために身を投げ打ってでも働くという労使間の精神的な構造である。自分は何ができ、どの点において他人より優れているから、そこを買われてペイが支払われているという意識はさほど持だない。しかし、何よりも忠誠心が強く、どんな仕事を命ぜられてもいやがらずに懸命の努力を怠らない。つまりご奉公の精神であり、一刀流の達人がたまたまその技量を見込まれて雇われたという関係ではないのである。一刀流の達人には、お家のためにという一途な気持は少ない。おのれの技を研くことにより強い意欲をわかせる。使う方に技に対する畏敬の念を抱かせるだけの力量がなければ成立しない関係である。
 建築家というものは本来、常々自分の技量に磨きをかけスペシャリストとして施主の役に立つべき職業である。どちらかというと一刀流の達人という類の職業である。
 建築家システムとも呼ぶべきエキスパートシステムを、コンピューターを用いて作ってみたいという願望は、建築家の中からはなかなか生まれにくいと思う。しかし、コンピューターの専門家だけにまかせておいても良いシステムは決してできない。第五世代コンピューターを用いて、感性においては一刀流の達人のような鋭さと冴えを備え、しかも日本的経営における従順さをもつ経営者にとっての理想的なエキスパートシステムを、どのようなアプローチによって作り上げることができるか十五年先を目指して着手する時であろう。
 建築家がコンピューターの実体を理解する方が、建築家の実体をコンピューター屋さんに理解させるより、はるかに道が近いと思う。

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コンピューターヘの取組み (1984年7月2日)

 毎年五、六月はコンピューター関連業界の催しが行われる。今年もビジネスショー、マイクロコンピューターショー、CAD/CAMショー、計測機展等が開かれた。いずれの会場にも、コンピューターグラフィツクスを用いて、各種の応用分野にうったえた商品が数多く出品されていた。建築を題材に取り上げたメーカーも多く、設計図面を描かせたり、透視図を描かせたりして人目をひいていた。
 コンピューターの実用化が進むにつれ、処理結果の表現方法が次第に豊かになってきた。以前からプリンターに文字として打出すこと、プロツターに図形を描かせることは行われていたが、プリンターへの打ち出しはともかくとして、プロツターに図形を描かせるプログラムを作成することは、想像を絶する程の労力が必要である。従つてサンプル程度のものは簡単に作ることができても、実用になる図面を日常的に猫かせることはいまだに行われていない。大型のプロツターを購入すればどんな図面でも描くことができ、設計者の効率を上げたり、水準の向上が行えると考えるのは間違いである。極く定形的な図面を日常的にプロツターによって描かせることはできる。しかし、それらの図面は印刷した方がはるかに効率が良いと思われる程標準的なものばかりで、コンピューターで図面を猫かせていることを誇示するための小道具に過ぎない。
 プロツターに汎用的な図面を描かせるためのプログラムの作成は、それ程労力のかかるものだということを、まず頭にしっかりと入れておくべきであろう。決して、技術的に難しいことではないが、必要なことは単純なプログラムを沢山作る労力である。CADシステムというものの本来のねらいは、そのように労力のかかる作業を、なんとか省力化することができるようにというところにある。決して図面一枚を従来の設計者よりも早く描けるとか、きれいに描けるということではなく、そのためのプログラムを従来よりも労少なく作れることにその価値がある。そのことを理解した上で、CADシステムの導入を考えないと、CADシステムは導入したものの、その効果はさっぱり上がらないという結果になる。
 本来、建築家はいかにして設計者のイメージを施主に表現するかということに腐心する職業である。見えないものをいかに見せるかという手段を数多く用意していたはずである。設計図面や透視図はその一手段に過ぎない。模型を作り、模型の写真を撮る。模型の寸法を計って家を建てることは絶対にしない。模型の目的がこれから建てるべき建物のイメージを表現することにあるからで、実物よりも美しく作られていてほしいというものである。
 コンピューターグラフィツクスは、さらにもう一つの表現手段を建築家に与えてくれる可能性を有する。しかし、そのためにはコンピューターグラフィツクスを使ったシステム作りを、建築家自体が行う必要がある。単にメーカーの作ったシステムをそのまま便うだけでは、決して建築家の役に立つ道具にはならない。過去においては、建築家は単にコンピューター屋さん達の顧客にすぎなかった。上得意として持ち上げられてきたが、建築家自体にとって一体どのような役に立ったか、もう一度反省する時期であろう。そして、次の時代のコンピューターは、単なる顧客として参画するだけではなく、システム作りの一員として、もう一歩踏み込んでみてはいかがなものだろうか。建築設計という技術の奥の深さをシステムに盛お込むためには、建築家自身の仕事をもう一度掘り下けて考え直す必要がある。コンピューターを真に役立つ道具とするためにはゝ利用者の深い理解が必要なのである。

コンピューターと建築家の適性 (1984年6月4日)

 従来手作業で処理していた業務にコンピューターを導入し、機械的な処理を行おうとすると、必ずいくつかの壁に突き当たる。その壁の原因を分析してみるとコンピュータ側に問題がある場合と、従来の業務処理そのものに矛盾を含んでいる場合とに分かれる。今のところコンピューターはそれ程融通の利くものではない。うまくやっておけと念じても、うまくとはとはどの程度を指すのか、処理の方法か、処理の速度をいうのか、明らかにさせなければ先に進まない。コンピューターにはすべての処理に関して、逐一こと細かに分析を行って処理の指示を与えなければならない。
 従来の手作業では、方法に多少の矛盾が含まれていても、担当者の裁量でなんとか繕ってしまっていた。むしろ、繕えないようなひとは無能な人であり、うまく繕える人が有能な人とされていた。
 建築工学の中には、機械や電気に比して、多くの逃けを技術の一つとして取り入れてきた実績がある。鉄骨の穴あけや、切断の精度をうるさくいうよりも、逃げの取れる設計が、施工をし易くし、ひいては設計時の意図を、完成まで保持するための大切な要素であった。
 逃げは、見方を変えれば設計者から施工者に決定を委ねた部分であり、施工者はこれを有効に活用して、工期の短縮にも、安全の確保にも寄与できるし、また、仕上げの見事さも逃げのない設計からは得られない。建築家は長い間にいつの間にかいかに逃げを盛り込むかの技術を身につけてきたのである。
 今のコンピューターは、いかにも逃げが許されていない。従って、ほんの些細な間違いが全体に影響を及ぼすことが多々生ずる。それがコンピューターだと教えられてきたが、本当にそういうものだろうか。
 逃げの少ない仕事は、これを完成するのに厳しい品質管理が要求される。厳しく品質管理された仕事は、そうでない仕事に比して良い仕上りが期待される。これは不変の原理であるが、このことと、だから逃げは取らなくて良いと短絡するこきとは、全く問題の本質を異にする。
 逃げの少ない設計は、設計技術が未熟であることを意味する。人間の行う仕事にミスは付き物である。ミスの影響をなるべく局部的な範囲にとどめるための技術が逃げの技術である。コンピューターは、随分進歩したといわれている。その多くは、コンピューター側からでた話であったり、その昔コンピューターに携わり、今現在は引退寸前の人々の感想に過ぎない。利用者からみたコンピューターの技術は、まだまだ未熟であり、その時々のできる限りの最善を尽くした作品ではあっても、工学的にみて一般利用者の役に立つ商品にほど遠い代物であるといえる。コンピュータ自体の不備は、結局利用者に対する負担になり、コンピューターの管理コストが大き過きたり、ソフトウェアのバグがいつまでたっても取り切れないという不安感を抱きながら利用する結果になる。
 コンピューターを逃げのない未完成なシステムからより完成度の高いシステムに構築するには、建築家の感覚と感性を必要とする。未完成のコンピューター技術に引きづられることなく、より高い技術の域に引上げるためには、建築家の参画が必要である。
 そのためには、建築家もコンピューターをより理解し、勉強しなければならない。単にコンピューター化の波に洗われることを恐れるだけでなく、こちらからコンピュータシステムの設計に、積極的に関与し、取り組む姿勢が必要である。コンピュータが、建築家にとって解りにくく、難しいと感ずるのは、コンピューターが一方的にメーカ側の事情によって作られた未成熟な商品だからなのである。

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コンピューターの使い手 (1984年5月14日)

 ここ数年のコンピューターの普及は、予想をはるかに超える勢いが続いている。当然建築業界へも相当な量のコンピューターが.流入してきた。コンピューターの生産技術の進歩は、大量生産を可能にし、量産による価格の低下が急ピッチに進んだ結果、技術者一人に一台のコンピューターを持つ時代がやってきたわけである。
 コンピューターが何に使えるかを議論する時代は、とうの昔に過ぎ去った。現在は、それぞれの業務に活用し得るか否か我々が試される時代である。コンピューターは、使い込めばそれだけの仕事をする純朴な部下である。
 手計算時代の構造設計は、一つの仮定断面に対する設計をするのに何日もの時間を費さなければならなかつた。計算書をまとめるために、与えられた設計期間の大半が費されてしまって、仮定断面等の見直しを行うゆとりが得られなかつた。コンピューターによる計算は、比較にならない程速い。仮定断面の変更による計算の繰りり返しは、お茶を一杯飲む間に終わつてしまう。もはや、計算そのものの手間の問題ではなく、構造設計者がこの道具を前提としてどんな仕事をするか、一つのテーマに取りくむ他の専門分野の設計者達逞と如何なるコミュニケーションができるか、腕の見せどころである。
 これはひとり構造設計者だけの問題ではなく、意匠設計者も、設備設計者も同様である。照明器具の最適配置は、その空間の利用目的によって異なる。そして、一組の照明具によるある室内における任意の点の照度計算は、一瞬のうちに行われる。その結果を設計にどのように反映させることができるか。これから先は設計者の仕事である。隣室との間仕切壁の材料選択に、防音のシミュレーションを行うことは、今や容易に可能である。音源に対して隣室への影響度合をどの程度におさえるかは、設計者の判断である。利用者の利用状況をどのように想像し、利用者の立場にたつて材料の選択を行うことは、技術的には十分に可能である。設計技法として取り入れるか否かは対象によって決めれば良いことである。
 建築のあらゆる頷域にコンピューターが浸透し、自由にこれを使うことのできる環境は整ってきた。うっかりしていればコンピューターに職を奪われることにもなり兼ねない。単純なコスト比較によってコンピューターに置き換えられる仕事は、次々にコンピューターによって処理が行われるようになってきている。手作業に比して、律義さと手速さにおいては比較にならないほど優れている。ただし、全く気がきかない。気がきかないといってコンピューターを叱るわけにはいかない。気のきかなかったのは、自分自身であり、コンピューターは忠実に命令者の命令通りに仕事をしただけのことだからである。コンピューターを使うと、使う前に比べて大変忙しくなる。遊ばせないで使おうとすればいくらでも働くが、結果は、使う側が神経を使い、以前に倍する働きを強いられる。楽ができるわけではないが、仕事の内容は格段に濃くなる。自信をもつた良い仕事ができるようになる。
 かつてのコンピューターは、使いはじめるまでが大ごとで、専門家でなければ容易に近づき難い代物であった。高価であり、これを使いこなすために大きな努力を要した機械であった。今では、それらの経験がうそのように手軽に扱える実用的な道具に変身している。今度はこれを使う建築家が、旧来の手法を一変させ、施主の要望に応えられるように、研究する番である。

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