1986年 1月−12月

情報化都市構想に思う(1986年12月1日)

 21世紀に向けて未来都市の典型を作ろうという、情報化未来都市構想が通産省によって進められている。候補地として東京の臨海部地区、川崎の都市部臨部地区、大阪市南港・北港地区、関西新空港周辺地区などがあげられており、具体的な土地を想定してモデル都市の設計を行うという。
 情報化未来都市というからには、現在の都市の行き詰まりを打破するものであって欲しいし、そうでなくでは研究の意味もない。現在のわが国における都市問題の最大の問題点は、大都市、特に東京を中心とする人口の集中化をいかに緩和するかである。都市部における士地価格の狂乱ぶりは、異常である。地揚げ屋が跋扈して長年住み慣れた住民達を追立てるさまや、固定資産税を以前からの生業では払い切れなくなって土地を手放してゆくさまは、いかにも異常であり時代の趨勢として、傍観していて良いとは思えない。
 情報化未来都市であるから、コンピューターを前提とした通信ネットワークが縦横に張りめぐらされ生活に密着した文字通りの情報化都市を思い浮かべても不思議ではない。当然のことに朝の通勤ラッシュ等から解放された生活を想定して研究されるのであろう。しかし、先の内定していると発表されている四地区では、現状の都市問題がさらに助長されこそすれ解決するとは到底思えない。
 都市問題の陰には過疎地の問題も年々深刻化している。過疎地をかかえる各県は、テクノポリス構想に乗ってもなんとか人□の流出を防ぐべく種々の方策を巡らせているが、一向にはかばかしい効果があがらない。原因の第一は、国の各省庁が東京を離れないことにある。情報化未来都市を標ぼうするからには、その効用を実際に確認し立証するために、通産省自身が過疎地域に移転することを考えるべきであろう。
 過疎地域に居を構えて支障をきたさないために、情報化をいかに進めるべきか、新交通システムはいかにあるべきか、インテリジェント国際ホテルはどうであれば良いかと考えるのでなければ、国家予算の無駄遣いをするに過きない。国の各機関が東京にあるかきり、真に必要な情報とその伝達手段のさしせっまった需要は見出せない。地方における通信料の格差に対するクレームは、地方に住み地方においてコンピューターを前提とした日常業務をこなして始めて実感できることである。
 東京に国の機関が集中しているかきり、名刺配りを日常とする悪習は絶えないし、そのための要員もまた東京を離れられない。
 せめて情報化都市委員会は各委員が居ながらにして会議のできるパソコン通信による電子会議で進めたらどうだろうか。委員はなるべく全国各地に居住する人々を選び,通信の地域格差を十分に実感してもらいながら、真に情報化のあるべき姿を模索してほしい。電子会議など何人でも希望者の傍聴は可能である。各委員達がどのような意見の持主であるかもわかるし、委員の人々もしっかりと勉強するようになり、文字通り情報化未来都市に相応しい会議になりそうな気がする。

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パソコン通信のすすめ(1986年11月4日)

 パソコン通信が流行り始めている。特定の個人宛ての電子メール、あるサークル内の電子掲示板(BBS)、特殊用途向けのデータベースの検索等、パソコン通信の利用範囲は極めて大きい。特徴は、加入者全員が平等に情報を受けられることにある。従来、専門家非専門家の対話は、専門家から非専門家に対する一方的な、対話というよりも通告に近い説明か、専門家の立場を守るための解説に終始していた。時に、新聞や雑誌が非専門家のクレームを取り上げて、世に訴えることがあるが、これとても一般には遅きに失して非専門家の受ける被害を救済するには至らない場合が多い。
 専門家はその分野に関する専門知識を持ち、非専門家に対してその知識を披露することによって生業が成り立つ。メーカーと消費者、医師と患者、建設業と施主等非専門家は専門家の知識を頼りにして種々の選択を行う。時には専門家は師の立場になり、非専門家は顧客の立場より弟子の立場に近くなる。
 パソコン通信のBBSを顧客のために用意することが常識になるには、まだまだ時間がかかると思うが、BBSを開設しない専門家に比して、開設している専門家は、はるかに良心的であるに違いない。あるクライアントから専門家に対してBBSを介して質問を投げかける。それに専門家が答える。その応答をすべての会員が平等に読み取れる。第三者が直ちに自分の感じた疑問をBBSに投ずることができる。第三者の立場から当事者の立場に早変わりする。
 これは、専門家にとっても良い刺激になる。質問に対する答をきちんとしなければならないし、そのための勉強を普段からおろそかにできなくなる。従来だと、個人個人に対して納得させればよかったことが、会員全体を納得させなければならないわけだから、ごまかしは通用しなくなる。
 悪徳な専門家に対して、お上のお出ましを待つまでもなく、クライアント自身で判断し、防御対策を講ずることができる。
 専門家にとっての利点も多い。不良な顧客のリストを業界のBBSに公開することができる。自分の領域を外れた顧客を他に紹介するにも役立つ。
 パソコン通信の利点は数多いが問題もある。日本語の入力の問題もその一つである。欧文に比べタイプ打ちに手間がかかりすぎる。
 ワープロが相当数売れ、キー入力に馴れた人が増えたとはいえ、手書きに比べて時間がかかりすきる。またパソコンを電話につないでもBBSを覗けるようになるには、少しは練習しなければならない。受話器を取ってダイヤルを回せば、意思を相手に伝えることができる電話の手軽さには、到底及ばない。遠隔地からの通話料は電話とは比較にならないほど高い。
 さまざまな難点があるけれども利点も多い。とにかく一度パソコン通信を体験してみることを、お奨めする。今の時期は丁度各種のパソコン通信がテスト中でもあり、体験するには都合が良い。

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ソフトウエアの見直し(1986年10月1日)

 1980年代はコンピューターが大量に生産され普及し、建設業界にも大量のコンピューターが流れ込んできている。
 数少ないコンピューターを大勢の人々が共用する時代から一台のコンピューターを一人一人が専有する時代に移行し、コンピューターの価格と性能に変更をもたらした。量産されるコンピューターは性能・品質とも高く、特殊なコンピューターは品質が伴わない。小形のコンピューターが大形のそれを性能面でも凌駕する時代がやってきたのである。当然ソフトウエアの開発手法と利用方法にも大変革をきたしている。
 より正確にいえば変革に挑戦しなければならない時がきているというべきであろうか。従来の手法やプログラム言語にこだわっていては、到底需要に追いつかないし開発費が掛かりすぎる。
 もともとソフトウエアというものは、ハードウエアの及ばない部分を補って、利用者の利用目的に合った機能をシステムに持たせるという役割が主体であるから、ハードウエアが変われば当然そのカバーする領域は変化する。
 ハードウエアは各時代において調達し得る部品を前提としで設計を行う。従ってハードウエアに用いる部品の製造技術が進歩し、機能的な変化があれば当然ソフトウエアの内容も開発手法も変化をきたすことになる。
 ソフトウエアは論理の組立てによって作られる。しかしソフトウ工アが利用される環境はあまり論理的ではなく、極めて人間的な習慣や因習に支配されている。あらゆる処理に共通して言えることは、処理の原則は極めて単純な論理の組立てによって作り上げることができるので、その限りにおいてはソフトウエアの開発も取り立てて難しいこともない。実際問題としては原理原則に対する例外事項の処理が論理的ではなく、例外処理の論理の組立てを行う仕事はおよそ工業的とはほど遠い。どちらかといえば芸術に近い要素を多分に含んでいる。さらに完成した製品はほとんど工業製品と同様の取扱いを必要とする。
 ソフトウエア開発は予定通りにはかどらないことが多い。仲間うちではむしろ予定が狂うことが当たり前とされている。
 人間の感性や集中力に左右される仕事だから、開発者の能力差が明らかに表面化する。このような仕事を工業化しようとしても旨くいかない。ソフトウエア開発というものはそういうものだという理解がなかなか浸透しないところに問題の難しさがあると思う。
 ソフトウエアは質の差が激しいから良いソフトウエアを大切に、そうでないソフトウエアを整理する。良いソフトウエアを皆で利用して磨きをかければますます質が上がる。駄作にこだわるとロスが拡大する。見極めと思い切りが大切である。ソフトウエアの運用にあたっても同様のことがいえる。
 社内の規則や暗黙の了解事項を若干変更することによって、新規の開発を大幅に減少させることができるし、その逆の場合には予想外の膨大な出費を必要とする。

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建築用CADシステム(1986年8月1日)

 最近のパソコンは汎用コンピューターの性能を凌駕し始めている。特に専門技術者との対話を必要とする領域の問題においては、パソコンを除いて、システムの設計をすることが出来なくなつてきた。唯一の弱点が有るとすれば、パソコンが実用化されてから未だ日が浅く、ソフトウェアの蓄積が少ないことであろう。しかし、ソフトウェアの開発速度においては、パソコンは遥かに汎用コンピューターを凌いでおり、日ならずして良質のソフトウェアが、世に出てくることは間違いない。
 本年に入つて、パソコン用の建築CADシステムが次々に発売されはじめた。標準図を数多く用意して、作図時にこれらの標準図を張り合わせるような手法や、過去に引いた図面の修正が有効な図面を書くには都合が良い。木造建築矩計詳細図やRC構造物のスラブ、段階詳細図等がこの類いであろうか。一方、二、三年前から建築図面の自動図化システムの研究が盛んに行われており、ぽつぼつその成果品の発表の時期が近づいている。自動図化システムは、一品生産を前提とした作図をいかに効率よく行うかという観点からの発想であり、建築物ごとに異なる寸法や材料の指定を、長年の間に習慣化した図法に従ってプログラムしたものである。
 CADシステムは一旦描かれた図面の修正に適し、自動図化システムは真新しい紙面に個々に定義しながら描く図面に適する。この二つはそれぞれ異なる特徴と短所を持ち、単独に利用すると思うような効率が上がらなかったり、思うような図が描けなかったりというところが現状であろう。双方の欠点を補うためには自動図化システムで作図した図面を、CADシステムによって修正を施すことを考えるべきであろう。
 自動図化システムを利用して作図を行う場合、作図だけ終わらせて捨ててしまうには、いかにも惜しいほどのデータがパソコン内に蓄積される。構造図作図のために必要なデータに荷重と材料強度に関するデータを追加すれば、構造計算に必要なデータが揃う。また、躯体積算に関するデータはそのままで揃っている。一貫構造計算プログラムは、パソコン用の質の良いものが普及しており、これらとデータの共用が可能になれば、自動図化システムの利用効果は、一段と向上するに相違ない。
 このようにパソコンによるCADシステムや自動図化システムが普及し、ソフトウェアが蓄積された時、建築の技術者が不要になるのではないかとの危惧を抱く人がいる。コンピューターは建築技術者にとって、極めて有用なツールであることは間違いない。但し、所詮はツールであり技術者に成り代わるものではない。ツールの進歩は手法に変革をもたらす。その変革に追従し、ツールの改良を心掛ける必要は建築技術の分野だけに限られたことではなく、技術者として当然の義務であり、もしこれを怠れば時代の変化に取り残されることもまた当然であろう。
 既にパソコンは走りはじめており、使いみちを研究することは利用者の甲斐性である。

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EWSの導入について (1986年6月28日)

 最近かなり頻繁にソフトウエア会社の実態に関するアンケート調査の書類が送られてくる。○○省△△局の依頼状と財団法人口□研究所のアンケート用紙が入っており、真面目に記入すると一時間では到底終わらないほどの分量のものも多い。国家予算をふんだんに使ってソフトウエア会社の実態調査を行うこと自体にも疑問はあるが、答えないと後々何か良くないことでも起きそうな、一種の脅迫感を感じさせられるので、ついつい付き合わさせられる。
 アンケートのなかに、SE(システムエンジニア)とプログラマーの人数を聞いているものが多い。暗黙のうちに技術者の位分けをしている意図が伺われる。SEの方が上で、プログラマーはその下働きかSEの卵と見た質問に思える。もっと端的に、五年以上のプログラマーの経験者をSEと呼ばせるものもある。そして、それぞれの人数を記入させる。ソフトウエアの製作工程を大別すると、設計、コーディングおよびテストの三工程に分類でき、設計をSEが担当し、他の二工程を主としてプログラマーが行うものとされている。
 プログラムの品質が、コーディングを行うプログラマーの力量に左右されるという事実は、意外に知られていない。プログラマーの能力評価を殆ど行わないのは、質をうんぬんしては、プログラマーの頭数を揃えられないためか、能力の低いプログラマーに遠慮しなければならないためか、あるいは能力の差異をつかむ能力が管理者にはないからか。いずれにしろ、経験年数以外の評価をなかなか行わない。最も大切な部分に目をつむって、形式だけを整える風習は、ソフトウエア開発だけでなくあらゆる分野に蔓延している風潮かも知れない。しかし、それは確実に製品の品質を落とし、使いものにならないソフトウエアを量産する結果にしかならない。
 SEに関しても同様のことがいえる。プログラマーの古手がSEではない。SEという専門職であって、プログラマーとは別個の能力と知識を必要とする。当然、能力の高いSEの設計したソフトウエアは良いものになる可能性が高い。能力のあるプログラマーがSEとしての能力を発揮する場合もあるが、プログラムを書いては超一流の技術者に、プログラムの設計をさせたばっかっりに、大失敗をする場合も珍しくない。能力のある専門家をその職種の専門職として厚く処遇する道を考えることは、管理者の大切な仕事である。その努力を怠つて画一的に物事を処理してしまおうとする発想では、良い仕事はできない。
 プログラマーとして、一生仕事を続けることはおおいに推賞すべきことであり、妙にSE等という用語でカムフラージュすべきではない。プログラマーよりSEの方が給与が高いという風潮が蔓延しないようにしてほしい。プログラマーのなかでもできの良い人はたくさん稼ぎ、そうでない人はそれほど稼げなくて当たり前というほうが自然である。SEでもプログラマーより給料が安くてもー向にかまわない。左官と大工の関係と少しもがわらない。海彦山彦の実話は、現代の先端技術の領域に極めで多い。

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夢のまた夢Alの研究 (1986年6月4日)

 いったい何を考えているのだろうか?AI(人工知能)ブームに乗り遅れてはならじとばかりに各社ともAI熱に浮かされている。欧米からAIの研究家を招へいして講習会を開き、勉強がてらひと仕事をたくらんだり、何か建築分野でエキスパートシステムに乗せる良いネタは無いかときょろきょろしたり、まことに忙しい。
 Alの研究そのものは決して悪いことではない。むしろ仕事の余暇に勉強することは大いに奨励されるべきと思う。勉強のためにAIシステムに建築分野の中からテーマを一つ選んで、サンプルとして乗せて見ようということは、勉強の方法のひとつとして考えられることである。しかし、「折角サンプルを乗せたのだから、AIシステムの販売代理権を取つて売ろうではないか」という発想は行き過ぎである。
 コンピューターの製造技術はLSIの製造技術の進歩に伴って、このところ急速に進歩した。しかし、その内容は量産の技術であって、決して高性能のコンピューターを少数つくる技術ではない。パソコンに代表される量産もののコンピューターは、性能も信頼性も著しく向上し、いまや大型コンピューターと肩を並べるまでになった。それどころか人間との対話性能においては、遙かに大型コンピューターをしのいでしまった。大型コンピューターの開発は既に行き詰まりの状態である。開発コストと販売価格×販売台数の関係が崩れて、かつてのコンピュータービジネスを急成長させたほどのうまみが失われてきたことがその原因なのであろう。価格性能比は当然パソコンが上である。それどころか性能そのものですらパソコンは大型コンピューターに追いついてきたのである。
 コンピューターに限らず、あらゆる分野に共通することであるが、一定の水準を超すための技術開発には長い年月に亘るひたむきな努力が必要である。ソロパン片手の技術開発でできることは、たかが知れているとしたものである。
 建築も近年は分業化が進み各細分化された専門領域の中で、エキスパートと呼ばれる人々は多い。しかし、これをエキスパートシステムに乗せて、その人の代わりが務まると思われる分野はほとんど見当たらない。エキスパートがエキスパートであるゆえんは、初めて会ったような難問に対しての解決策を一生懸命に考えることができる能力を持っていることにあり、一目でさらさらと答えを提示して見せることではない。
 AIはたしかに夢である。自分自身に代わって物を考えることの出来る機械を作ってみようと思うこと自体が、楽しい夢である。一生のうちには物にならないとしてもどこまでゆけるかライフワークとして取り組むことを、批判しているのではない。ちょっとしたサンプル程度のものをあたかも本物のように見せかけて、商売のたねにしようという根性に、憤りを感ずるのである。現状のコンピューターでは、せいぜいエキスパートシステムのサンプルが精一杯のところなのである。

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良いコンピューターを選ぶ(1986年5月6日)

 コンピューターが余りはじめた。数年前に売れないパソコンを造り過ぎて、数十億円分の在庫を処分したメーカーのことが新聞記事になっていたが、その類の話ではない。汎用大型機といわれるコンピューターからパソコンに至るまで、実用機として活躍中のコンピューターが、かつての終夜運転の伝説を信じられないほど余りはじめたわけである。
 何かと制約の厳しい汎用コンピューターに嫌気のさした現業各部門が、それぞれ自分達の自由に使えるスーパーミニコンを導入し次第にホストコンピューター離れの現象を起こしている。一時、スーパーミニコンの供給が間に合わないほどよく売れた。ホストコンピューター上で稼働していたソフトウエアは全てそのまま動きますというふれ込みのスーパーミニコンは現業部門の技術者達にとっては社内の規制を受けないということも魅力に加えて次々に導入していった。必然的にホストコンピューターは稼働率が低下し時間当たりの社内価格は年々引き上げられる。その結果益々現業各部はホストコンピューターから離れてゆく。
 スーパーミニコンの需要の場に、スーパーパソコンという利用者との対話性能を売り物とした商品が現れてから、既に四年の歳月を経た。ソフトウエアの互換性に加えて、高性能のピツトマツプディスプレイを備え、ローカルエリアネットワークによる他のパソコンとの対話も可能にするという、コンピューター利用上の革命的ともいえる機能をもって、次第にスーパーミニコン市場に浸透している。最近、エンジニアリング・ワークステーションという呼び名によって名乗りを上けるベンダーが相次いで出現し一種のブームを呼んでいるが、これらは全て同類の発想を原点とするものである。
 一方、パソコンはこのようなホストコンピューターの技術的な停滞を契機として、その市場に食い込んだコンピューターとは全く別個に登場し独特の普及形態を示している。ここに来て急速に高機能化が実現され、スーパーパソコンと市場を共有するレベルにまで達してきた。しかも価格はスーパーパソコンに比して、五分の一程度であるからチームに一台から個人に一台ずつ持つことも可能になっている。
 コンピューターの性能と価格は必ずしも比例しない。むしろ普及台数が性能の高いコンピューターを低価格で供給する大きな要素であり、価格が高いからものが良いのではなく、沢山作るから一台当たりのコストが下がるのである。
 次に来るものは当然流通コストをいかにして下げるかということになる。電話でセールスマンを呼び付けたり、セールスマンが訪問販売していたのでは流通コストは下がらない。もっと利用者が積極的に販売店に出向き、良いコンピューターを安く買う努力をするべきであろう。
 コンピューターは余り始めできた。しかし、まだまだ利用者にとって使い心地の良いコンピューターは少ない。コンピューターは難しいものであるという先入観を捨て、使い易いコンピューターの入手を心掛ければ、対価格性能比の優れたコンピューターを手に入れることができる。資料による研究ではなく実際に使ってみて決めるべきである。

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手軽なコンピューター(1986年4月1日)

 コンピューターの実用化は着実に進んでいる。構造設計事務所にはほぼ100%、意匠事務所や建設業にも50%以上の事業所にパソコンが導入されている。事業所当たりに1台という時代から各担当部署に1台ずつ、さらに各個人ごとに1台ずつというほど普及しはじめている。
 パソコンは電話器と同じようなもので、思いついた時に使えないと用件そのものを忘れてしまう。電話をしたから確実にその効用が現われるというものではなく、電話をしなかった時に、後になって「あの階電話をしておけばよかつた」と後悔することの方が多い。また、一種の習慣性の要素もあり、電話をしないことが度重なると、つい電話をかけることが妙に億劫になる。どうも、パソコンにもそのようなところがあり、「ちょっとチェックしておこうかな」と思った時にパソコンが空いていないと、じっと空くのを待つ心境にはならない。そのうち他の用件を思い出し、そちらに気を取られて、いつか忘れてしまうことになる。忘れてしまったからといって、チェックするべきことをしなかったことの影響が直ちに現われることは稀である。しかし、一たん思いついたということは、やっておいた方が良いはずで、それを怠ったことを万が一にも後になって後悔するようなことになっては大変である。
 かつて、コンピューターを使うということは、余程のテーマと使うために必要な予算とともに「これからコンピューターを使うのだ」という心構えを要した時代があった。ほんの数年前まではそれほどの希少価値であり、ちょっとした思い付き程度でコンピューターを使われてはたまらないという代物であつた。そのころの感覚が未だに尾を引いている人々も多く、コンピューターを近寄り難いものに思い込ませてしまっている。
 パソコンの普及と共に現実のコンピューターの価格は低下し、文字通り個人が1台ずつ所有できるほどの価格になった。
 建築の設計の過程で、「ちょっとチェックをしておき度い」と思うテーマは極めて多い。基本的な法規の問題や防火上の問題は勿論のことであるが、内装材料と防音効果や、照明と照度の関係にしてもチェックする習慣を身に付ければ自然に設計者自身の知識が豊富になる。その結果材料メーカーとの応対の方法も当然変わってくる。従来、専門の技術者に依頼しなければならなかった「ちょっとしたこと」が、今ではパソコンを2、3分使うことで間に合うようになってきた。設計という仕事は、やり始めると際限がない。しかし、ちょっとした細かい点にまで気を配るかどうか、設計者の単なる良心という程度のことではなく設計者の常識でなければならないことが多い。今までは、手が回らなかったということで済ませてきたことが多かったが、ごれからはパソコンによって、その気になれば簡単にチェックすることができるようになってきたのである。パソコンを導入し、CADを入れ、全てをコンピューターで処理するという意気込みをよく耳にするが、それほど大袈裟なことではなく設計者の簡単なツールとして手軽にコンピューターを使うべきと思う。そのような習慣を身につけることが大切なのである。

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コンピューターの変革期(1986年3月3日)

 大型コンピューターの性能がパソコンに勝るという時代は既に過ぎ去っている。一口に性能比較ができないほどコンピューターの機能は複雑化しており、一秒間に加算を何回行うかの競争をさせれば大型コンピューターは確かに速い。しかし、その速さは大型コンピューターをたった一人で使ったとすればという前提をおいた時の話であり、百人が一勢に使った時にも速いとは言えないのである。コンピューターに入力するデータが正しく入ったか否かを確認するための表示能力や、間違いを発見してから修正する速さを競えば、パソコンははるかに大型コンピューターを凌いでいる。過去に蓄積されたソフトウェアの量は、大型コンピューターがはるかに多い。それらのソフトウェアをそのままそっと使う分には大型コンピューターはまだまだ使いみちは残されているが、ソフトウェアの変更やたまたま発見されたバグに対する補修には多大の労力を必要とする。パソコンは実用化されてからまだ日が浅い。当然蓄積されたソフトウェアは大型コンピューターには及ばない。しかしソフトウェアの開発のし易さという点に関しては、大型コンピューターの比ではない。早晩パソコンのソフトウェアは量的にも質的にも大型コンピューターを凌ぐ日がやってくるはずである。
 コンピューターが高価なほど性能が高い時代は終わり、現在は大量に販売されている機種ほど安くて性能が高い。少量しか販売されていない機種は高価な割に性能は低いものだという認識はなかなか一般にはなじめないようである。この理屈は広く企業全体を眺めコンピューター業界の将来を見わたせば自然に理解できるはずであるが、極くせまい自分の身の回りや立場だけを考えたり、コンピューターメーカーのセールスマンの話をうのみにしては、とても理解できる話ではない。
 パソコンをせっせと売つてもメーカーはとても食べていけない。食べていくためには大型コンピューターをなんとかして売り続けなければならない。しかし、もはやユーザー各社が一台づつの大型コンピューターを抱えて、しかも独自に開発したソフトウェアのお守りをしながら使い続けることは、いかにも不経済な時代に入っているのである。
 大型コンピューターが各社に導入されてから既に二十年の月日が過ぎている。今から思えば試作品とでもいった方が良さそうなコンピューターであったが、高度成長経済の勢いに乗りながら、数多くのソフトウェアを開発し利用し続けてきた。そして、蓄積された数多くのソフトウェアのお守りにほとほと手を焼いているのが現状である。この際ソフトウェアを整理して、自社のノウハウの入ったものや特に良くできているソフトウェアとどこにでもある普通のものを分類して、前者を計算センターで運用するか、パソコンに移植して、大型コンピューターを返却する算段をはじめるべきであろう。今始めても最低二年はかかってしまう。ちょっとゆっくりすればたちまち五年の歳月が過ぎてしまうだろう。次々に新型機の売り込みをはかるコンピューターメーカーの言いなりにコンピューターを買う時代ではない。

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コンピューターと習慣の整合(1986年2月3日)

 建築の業務にコンピューターは着々と定着している。以前のコンピューターは、導入してから実用になるまでの期間が長くその間コンピューターにかかわる経費に耐えられずに、一旦コンピューターの使用を中止した例も多かつた。コストの高い割に使用上の制約が多く実用的ではなかったわけである。昨今のパソコンは、その周辺のソフトウエアやハードウエアが充実してきたので、購入したその日から使いはじめられるようになってきた。更に、安価であるから誰にでも購入可能である。
 コンピューターが実用的になると、利用者の業務に対する深い理解度が要求される。このことは意外に重要視されていないのに驚かされることが多い。コンピューターを導入すれば女の子でも云々という表現はコンピューターに対しても、女の子に対しても失礼であろう。もし、その業務が技術の領域のものであるなら、技術者が持つ技量相応にコンピューターは機能する。コンピューターだから技量の低い人でも、高い技量をもつ人と同じような仕事ができるという程にはもまだまだコンピューターは至っていない。
 恐らく今後十年や二十年の間には、そのようにある領域の業務の専門家の平均的な知識や技術水準を上回るようなコンピューターが現れることは考えられない。一連の仕事のうち局部的な作業をコンピューターを利用することによって作業効率を向上させることは現在も可能である。その作業を通じて、従来の方法論を批判し、コンピューターを意識した新しい手法の開発に取り組まなければならない時期にきているのである。
 一例を挙げるなら、建築にはA1判、A0判という大きさの図面を常用する習慣がある。建築の図面は何故にA1判でなければならないかということをもっと掘り下げて考えてみる必要がある。原図の青焼きが唯一のコピーの手段であった時代から、各種のコピーマシンが開発され、既に各事業所にコピーマシンが必ず設置される時代に移っている。但し、紙のサイズはA3判までが圧倒的に多い。A1判の大きさにこだわれば、図面のコピー代が年々コストアップになる。コンピューターを利用した図化機の類も、A3判とA1判は一桁以上も後者が高い。
 手書きの図面ではも文字の大きさがある程度は必要であつたと思うが、コンピューターによる出力であればB4判かA3判の図面でも、十分表現可能であろう。コンピューターによる処理は、図面に描かれた情報は単なるコピーであって、大もとの情報は磁気化されたメディアに格納されており、欲しい時に、欲しい部分を紙に出すことが可能である。
 従来は図面に盛り込まれたあらゆる情報が、契約書類の一部であると同時に施工のための基本図でもあり、図面を中心としたものの考え方であっだが、その図面がコンピューターから出力されたものであるとしたなら、図面に対する位置付けは当然変化して然るべきなのである。
 コンピューターを日常業務に利用する過程は、従来の習慣が単なる惰性でそのままプログラム化されても実用化には限界がある。当事者が常に考えながらコンピューターを便いこなす必要を痛感する。

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実用的CADシステム(1986年1月7日)

 今年はいよいよ本物のCADシステムがパソコンを中心として実用化しそうである。過去、今度こそはというCADシステムが何度も登場し、多くの建築家に対してデモンストレーションが行われてきたが、いずれも研究的な成果は別として、実用的には成功したとは言い難かった。
 なによりも従来のCADシステムは高価に過ぎ、あらゆる業界に対応できる汎用性をねらったために機能が多過ぎて、利用技術を習得するまでにあまりに多くの時間を要した。新聞雑誌等にはなばなしく、「○○会社が△△システムを導入」という記事をのせ、競争企業も遅れじと高価なCADシステムの導入を決める。しかし、その先一向にCADシステムが実用化したという話を聞かない。
 CADメーカーが思うシステムと建築の実務家が必要とするシステムの間にギャップが大き過ぎる。CADメーカーは十分にシステムの機能を勉強し、習得し、必要な設計用の資料をデータベースに格納すれば、あとは楽に設計できますという。データベースの構築にどのくらいの費用がかかるかという議論はほとんどなされない。利用者とすれば、気の遠くなるような膨大な量の設計資料を、システムに全部記憶させると聞いただけでうんざりする。会社の幹部は成果を急ぐ。担当者は、とりあえず幹部の目をごまかせるだけのデモ用データをたたき込み、デモ用の設計を見せる。見た人々はさすがCADシステムと思い、高い金を払っただけの価値はあったと安心する。
 デモ用の設計と実際の設計との間にどのくらいの開きがあるかは担当者の胸の内にしまわれて、だれも分からない。
 気がついた時は、高価なCADシステムはなるべく人の口の端にのぼることを避ける風潮が社内にまん延する。そのころは導入担当者も転勤、幹部は定年を迎え、いつかCADシステムもリース切れとなる。
 再び今度こそはと最新鋭のCADシステムの導入が始まる。過去十年余りの間、このようなCAD導入ブームの繰り返しの末、どうやらCADシステムはメーカーが作るものを使うものではなく、自分たちで作り上げる必要があるのだということが、実感として分かりかけてきたようである。
 建築というものは、一品生産品である。材料の数はデータ量にすれば楽に十万点を超す。その中から、現在設計中の建物は何を根拠に選ばれるのか。単価にも関係がある。施主の意向も取り入れる。設計者の哲学もある。
 これらを踏まえてCADシステムが自動的に選びだすという発想そのものが間違っているのであって、本来、コンピューターは設計者のほんのメモ代わりスケッチ代わりに使われるべきものなのである。メモを起こす本人は設計者であり、メモ用紙に比して簡単に書け、必要な時に簡単に取り出せればCADシステムの目的は半ば達せられる。メモがあれば図面を書くことは簡単である。
 今年はどうやら設計者の手足となるCADシステムが出現しそうである。まず安価であり、操作の習得は一日二日ででき、日常の手足となるCADシステムを待ちこがれていた思いである。

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