1994年 1月−12月

パソコンの行く末を読む(1994年12月16日)

 パソコンの性能は、この三年の間に急速に向上した。性能評価の一つは処理速度である。現在市販のパソコンの最高速度のものは、一秒間に六千六百万回の振動数(六十六メガヘルツ)である。九十メガヘルツという商品が表れ始めたが、その領域に入ると雑音その他に対して安定した動作を保証することが、次第に難しくなる。処理速度は、クロック以外に処理装置の設計上のさまざまな工夫が隠されていて一概にはいえない面もある。もう一つの指標は、記憶容量の大きさである。主記憶装置に関しては十六MB(メガバイト)程度の記憶装置は、それ程大きいと感じなくなってきた。現在のパソコンの補助記憶は磁気ディスクが主流であるが、補助記憶装置は三百MB程度は普通で、一GB(ギガバイト)を越すものも市販されている。
 ハードウエアの問題以外に、利用者にとっての性能は、ソフトウエアの性能が一体となって初めて実感できる。ソフトウエアの性能は、OSと呼ばれる基本ソフトウエアと各利用分野別の応用ソフトウエアに分かれ、パソコンの初期の段階には、BASICという応用ソフトを記述するためのプログラム言語専用のOSが作られ、これが爆発的な人気を博した。この時代には、ハードの性能は、現在の性能に比べて処理速度の面でも、記憶容量の面でも百分の一程度であったが、OSというー般利用者には分かり難い部分が表面に表れずに、直ちにBASICとの会話が行えるところが、従来の考え方に比べて新鮮であった。
 しかし、すぐに限界に遭遇した。八ビット機から十六ビット機への移行を機に、MS‐DOSというOSを介して利用者は、パソコンとの交信を行うようになる。このOSがハードの進歩に足並みを揃えて、機能の拡張を次々に加えて利用者を獲得し、マイクロソフト社の王国が築かれた。そして、ウインドウズのブームを迎える。
 ウインドウズの特徴は、機種に依存しないこと。ウインドウズのルールに沿って作れば、ソフトの開発速度が極めて早いこと。多重プログラムでいくつもの応用ソフトを並列に走らせることができること。そして利用者は、自由に画面の選択ができること。ハードの進歩が過去のペースを維持しながら今後十年も続くなら、マイクロソフト社のウインドウズのブームは本物だし、今、すべての応用ソフトをウインドウズに書き換えなければ、いずれ消滅の運命をたどる。マイクロソフト社のウインドウズが世界標準になってしまうからである。
 ただし、現在のウインドウズはまだまだ機種間の互換性に乏しいし、従来の応用ソフトの操作性を得られない。ハードの処理速度と記憶容量を基本ソフトが食いつぶしている段階である。
 過去、十年に百倍の処理速度を得た。これからの三年で三倍の処理速度が得られれば、今のMS—DOSのもとで動くソフトと同様の操作性で、ウインドウズのもとでも使える理屈である。これから、三年でその処理速度を得られるか否か、筆者は疑問に思う。十年先に漸くその性能に達すれば良いと予想する。つまり、ハードの処理速度はこれから伸び止まると見ている。ウィンドウズはもうしばらく静観する。

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「実用期」のソフトウエア(1994年11月18日)

 三十年以上もの長い時間をかけて、多くの人びとがコンピューターの有効な利用法について模索する時代が続いた。そして今、ようやく実用期に入った。
 コンピューターが極めて高価な時代に、何をコンピューターに委ね、何を人間が行うべきか、置かれた人の立場と、抱えているテーマによって意見が分かれ、議論が闘わされてきた。一九七十年以前には、実際に、コンピューターに業務を委ねた方が、はるかに経済的であるという仕事は、ほとんど見当たらなかった。コンピューターを利用しなければ処理が不可能な分野にだけコンピューターが利用されたといってよい。多くの場合、コンピューターを利用しながら、手作業で処理した方が経済的で、仕事もきれいに上がるはずだと思いながら、将来のために我慢しながら利用し続けてきた。
 人間のする仕事は、実に臨機応変である。それに引きかえ、コンピューターで処理する仕事は、そのために新たなルール、制約事項を設け、常時は不要なアウトプツトを山積みしたり、手作業での処理では到底あり得ない、さまざまな無駄な仕事をし続けてきた。人間が本能的に備えている仕事の優先度や仕事を省けるか否かの判断力をコンピューターに置き換えようとした試みは、すべて失敗に帰した。単純作業を人間が行うと飽きがくる。それを無理に続けると間違いを引き起こす。コンピューターの行う単純作業は決して間違えない。この双方の特質は、今後百年程度の間では変わることはない。
 巨額の投資を行ってきたのは、いずれも経済的にゆとりのある時代のことで、その成果が投資に見合っていたか否かを追求しても、犯人探しに終わるだけのことであった。不況期に入ると、コンピューターに対する投資は、各企業とも極端に抑制した。抑制したから、処理に困るというほどのこともなく、それを機会に旧来のコンピューターシステムそのものを見直そうとの機運が各社に訪れ、実用的なシステムが普及し始めた。
 パソコンの性能の向上と価格の低下は、まさにその時を得たといえる。
 もう一つのインパクトは、パソコン通信の活用と、それを前提としたフリーウエアと呼ばれる一種のボランティアの手によるソフトウエアの普及である。もともとソフトウエアの品質は、利用者の総数が決め手になる。パソコンとフリーウエアとその使い手の組み合わせによる、実用システムの普及は、ようやくにして訪れたコンピューターの実用期を感じさせる。
 実用システムには、使い手という役者が必要である。だれが使っても同じという旧来のシステムとの大きな相違点である。能力の優れた使い手が使えば、優れた実用システムが構築できるが、そうでないとシステムそのものが成立しない。航空機などに前例がないわけではないが、従来軽視されていた要素である。そのギャップをハードかソフトで埋めるには、大きな投資と時間が必要になる。逆にいえば、旧来のシステムはこの部分を機械化しようとして失敗してきたともいえる。優れた使い手の養成とその処遇の問題は、実用の段階では意外に大きな問題である。

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ソフトと「利用者」の関係(1994年10月26日)

 コンピューターのソフトウエアに対する評価は、利用者の技量やその専門領域に関する資質と密接な関係があり、決して一義的に決まるものではない。開発者が利用者のためになるように、知恵を絞って開発したソフトが、経験も経歴も年齢も才能も異なる沢山の利用者に使われると評価はまちまちになる。一部の人は大変高く評価したソフトも他の一部の人には全く評価されないということも度々生じる。
 先日、自動翻訳のソフトを利用して技術文献の翻訳を業としている技術者の仕事を間近に見学する機会を得た。原文は独、仏、露、スペイン、ポルトガルなど数カ国に及ぶ。ソフトは、これらの原文をまず英文に翻訳する。特殊な技術用語はあえて訳さずに星印で出力されるので、少なくともその原語の把握のために辞書は手元に置いてある。原文と機械翻訳された英文とを見比べながら、和文をワープ口に打ち込むのが翻訳者の仕事であるが、ほとんど淀みなくスムースにキーを叩く姿は、同じ道具を使ったとしても、職業として仕事にできる人はほかにほとんどいないと思った。
 まず彼は、英文を英文のまま読んで理解できる能力を備えている。機械翻訳は必ずしも適切な訳をつけてはいないが、英文が不備でも原文と対比して全く気にしないで文意をとらえてしまう能力を備えている。この二つの能力は日本人にとって稀有の才能であり、真似できる人は少ない。
 彼によると、原文を読み込むためのスキャナーと翻訳ソフトのお陰で自分は翻訳を業とすることができているという。翻訳ソフトのセールス担当者が、彼に是非、ソフトのデモンストレーションを手伝ってほしいと何度も頼みに来たという話は、ソフトを売ることの難しさを示している。同じソフトを購入しても、実際に仕事の役に立てている人は極めて少ないとも思った。
 建設業界には、さまさまなソフトが導入されている。設計段階でも構造計算、作図、パースなど業務が細分化されているので何百種類ものソフトが使われている。
 積算一つを例にとっても、RC構造躯(く)体、S造骨組み、仕上げなどの拾い出し、値入れ、見積もり書作成などの領域に幅広く使われている。施工段階となるとさらにNC加工まで含めて幅広い領域にソフトが導入されている。そして、さまさまな使われ方をしている。
 購入はしたけれども、ついに、使うことを諦めた利用者も数多い。コンピューターの進歩の過程で、さまざまなソフトが開発され、かつての機能不足の時代には、発想が優れていてもその時代のハード技術ではスムーズな利用法ができなかったものも多い。次世代のハードになって、初めて実用になるソフトもある。そして利用者がこれなら使えそうだと感じたソフトを根気よく使い続け、ある時には開発者にクレームを付けてでも自分の手に合うように直させながら、そのソフトに対する習熟度を深める。ソフトと利用者が一体となった仕事をして、利用者の技術領域での仕事が一流をなすことができる。その時、真に、ソフトは生かして利用されたということであろう。

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「ウィンドウズの功罪」(1994年9月9日)

 最近、ウィンドウズという用語をよく見かける。コンピューターの画面の一部を窓のように区分けして、現在操作している画面を窓の中で操作し、関連する別のデータの画面を必要に応じて少しずれた場所に表示して、内容を確認できる機能を総称してウィンドウ機能という。そのように操作できる機能の呼称が、パソコン用OS(基本ソフト)の名称として使用されてから、用語の混乱が屡々生じるようになった。
 建設業界でもCADだけでなく、広くコンピューターが使われているので、ウィンドウズの功罪について考えてみたい。コンピューターのOSの重要な機能の一つは、記憶装置の管理である。記憶装置は主記憶と補助記憶とからなり、主記憶は高速処理ができ、補助記憶は広域な記憶領域を持つ。
 近年の、コンピューター素子の製造技術の進歩により、主記憶も補助記憶もひところに比べると、一けたも二けたも大きな記憶容量が、パソコン上に実装されている。主記憶の読み書き操作と補助記憶や他の入出力の操作の速度差を利用した多重処理の機能が、OSの重要な機能であり、パソコンの性能の向上によって、この機能を盛り込むことが可能になった。
 ただし、多重処理を行うために、常時管理プログラムが作動するので、コンピューターの基本的な処理速度は、単一処理に比較して当然落ちてしまう。主記憶の読みとり速度と他の入出力処理の速度差を利用しているので、キーボードやマウス操作のような人間の操作は、コンピューターの速度とは比べものにならないほど遅いので、多重処理のために処理が遅くなったことを操作者に意識させないが、補助記憶の読み書きや画面の表示速度は、多重処理によつて明らかな性能の落差が表面化する。
 かつて、コンピューターの機能が極めて高価な時代には多重処理によって、一台のコンピューターを大勢で順番待ちして使うには好都合な恩恵であった。しかし、現在は、コンピューターの機能は、安価に手に入る。一人で二台も三台もパソコンを同時に走らせることは容易である。そのようなパソコンに多重処理のOSを搭載することは、むしろ、単体のパソコンの処理能力を落としてしまう危険を背負っている。つまり、折角向上したパソコンの能力を、多重処理のために無駄使いすることを、利用者に強要することになる。
 パソコンが従来使っていたOSは単一処理のOSで、その方が手慣れた利用者には手早く操作できる。問題は、新たにコンピューターを利用しようとする人たちに、少しでも分かり易いようにということで、ウィンドウズがもてはやされ始めた意味あいもあるが、コンピューターを常時利用するには、多少の勉強は必要であろう。
 初心者向きを強調するあまり、コンピューター本来の機能を大幅に落としてしまうような風潮は、極めて危険であり、その歯止めは利用者自らがかけなければならない。
 パソコンのソフトの画面表示は随分きれいになった。参照したいデータをいつでも見られるようになった。しかし、パソコンを使用して業務処理を行うには、必要なデータをすべて間違いなく入力しなければならない。画面がきらびやかになっても、この原則は変わらない。

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コスト把握の技術確立を(1994年7月12日)

 出口の見えないまま不況が続いている。建築の業界は、設計も施工も専門業界も全てに亘って、不況である。現在の不況は、バブル崩壊の打撃が生々しく残っており、その後始末が未だついていないのだから、安易な景気刺激策で回復するとは思えない。この際業界こぞって、技術に目を向け、腰を据えて懸案の技術的テーマに取り組む好機である。
 一品生産の建築物は、設計が完了した時点で、そのコストが正しく把握できていないところが、問題である。坪単価という、極めて大雑把な数値を基準に予算を立てることはできる。その坪単価が、過去に建てた建物の実績との比較はされていたとしても、それはあくまでも目安であって、基準ではない。その程度の根拠に基づいて立てられた予算が金科玉条としてまかり通り、それに合わせるために、材料の品質を落としたり、過剰品質の材料を使用したりされては、施主は堪らない。
 建築物に使用されている材料は、極めて多岐に亘り、その一つひとつを積み上けてコストを正しく把握することは、容易ではない。しかし他の業界におけるコストの把握と比較すると、建築業界は甘すぎる。バブル期に建設された建物が、その後遺症に悩まされているのは、現在の建設コストとの開きがあまり大き過ぎ為である。不況期の受註単価と好況期のそれの差か激しいということは、社会的に好ましいことではない。高い単価で受注した建築物のコストは、建設に占めるコストに比較して、受注活動に占めるコストが大きかった筈である。そのうちの一部が、たとえ合法的な政治献金であったところで、一般納税者は納得できるものではない。もし、純粋に建築コストが算出できていれば、受註活動の方法もまったく異なるものになったと思う。いずれにしろ、材料の数量が把握された後の建設コストを正しくはじき出す手法だけは、この時期に作り上げておくべきであろう。
 建築に使用される材料や労務費にも、需要の変動に基づく供給コストの変動は当然生じる。原材料と労務費の変動による複合単価の変化が、数量拾い終了後の値入れ作業に反映されれば、建築物のコストはより正しく把握できる。
 膨大な種類の建築材料の複合単価と細目単価の関係を歩掛かり表として予め用意する手法は、古くから用いられてきているが、複合単価をタイミングよく更新するには、コンピューターの助けを借りなければならない。
 現在のパソコンは十分その処理を高速に行える能力を備えており、時期に合わせた建設コストをより正しく把握することに、業界がこぞって取り組んでほしい。
 材料が市況に左右され、その材料を使用して作成される建築材料の二次製品は、原材料の単価が変わったり、建設地域による輸送コストが変われば、当然変動するわけで、その変動要素を考慮に入れた建築コストの把握を行える技術的なシステムの構築が急務である。

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設計データの施工への活用(1994年6月9日)

 コンピューターが未熟な時代には、在来の手法、手順を踏襲しながら部分的な処理だけをコンピューターに委ねるのが穏当な利用法であった。次第に機能が向上し、コンピューターによる処理が業務の中に定着してくると、コンピューターの利用を前提とした仕事の流れに、業務の流れを変更した方が、諸々の都合が良くなり、逆に、在来の手法、手順では時間のロスや資源の無駄が目立つようになる。在来の手法、手順の切り替え時には、さまさまな抵抗や反対意見に出合うが、時の経つに従って、次第に、合理的なところに落ち着くものである。
 建築設計者とコンピューターとのかかわりは、まだコンピューターが全く未熟な時代から今日に至るまで続いており、その間さまざまな意欲的な試行錯誤が繰り返されてきた。そして、コンピューターがすでに完成品であるとの前提に立った数々の勇敢な試みが行われてきたが、ハード、ソフトともに未完成であった為に、その殆どは実用に至らず失敗を繰り返してきた。しかし、開発途上のコンピューターを利用しての、意欲的な試みの失敗は、それなりに次の時代の教訓として活かせる。そして今日、最新のパソコンは、機能の向上と共に次第に完成度が高まり、設計用のソフトウエアも充実してきた。そろそろ、設計業務の流れをコンピューターの機能を生かしたものに変更した方が良いのではないか。パソコンの性能は、処理の速度とともにデータファイルの容量の面でも向上してきた。
 建物の設計時に使用したコンピューター内のデータは、施工時に利用できるものは活用するべきである。施工時に活用できるほど、精度の高いデータが設計時に作られているならば、自動作図ソフトによつて、必要な時期に必要な図面の出力を行えばよい。つまり、図面そのものが大切であった時代から、作図に必要なデータを大切にする時代に変化してきたのである。設計者は、設計の詳細を決める都度、データをコンピューター内に蓄積し、部分の詳細が他の部分に矛盾するか否か、部分と全体とのバランスなどを、必要な出力によって確認しておく。場合によっては、積算して、予算との関係を確認したり、工法との関連をチェックする。図面が自動的に書けたり、積算が自動的にできることを誇れる時代から、それらが整っていることを前提にした処理の流れに切り替える時期が到来したともいえる。
 もう、二十年も前から、理想的なコンピューターの利用法に期待しながら試行錯誤を繰り返し、失敗を繰り返してきた経験が、ようやく、現実のものに近づきつつある。一社内のシステムだけでなく、社外の他社システムとの間のデータのやりとりも含めて、設計時に蓄積されたデータを施工に活用できる素地が整ってきた。ただし、現在の最先端のパソコンを、設計にかかわる多くの人達が互いに共有できる為のネットワーク、場合によっては遠く離れた特殊な分野の専門家とのコミュニケーションの方法など、未解決のテーマに対する挑戦も含まれているので、まだまだ当分は未完成の時代が続くわけで、より良いシステムヘの努力が終わるわけではない。

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「パソコン通信」の活用を(1994年5月11日)

 パソコン通信の利用が徐々に浸透し始め、簡易的な広域ネットワークとしての需要が急速に高まってきた。パソコン通信の重要な用途の一つに、ある技術領域の専門家の自由な発言の場としての利用法がある。
 そのような場は、従来書籍か学会などの論文発表が主体であったが、パソコン通信の活用によって、専門的な情報流通の方法に、新たな手段が得られることになった。専門雑誌の場合は、編集者の意図が、読者層の広さを意識せざるを得ないのに比して、パソコン通信の場合の発言者は、問題に対する主観を自由に表現できる。問題に対する目己の主張が、技術的な観点に絞れる。しかも、比較的時間的なロスが少ない。他人の主張に対する反論も、社会的な地位や過去の業績などに左右されずに冷静に行える。勿論、他人の人格を誹膀(ひぼう)したり、他人を中傷するような行為は発言者自らが規制しなければ、結局その場の会員から批判を受けることになる。
 現代の技術は、技術領域が細分化され、共通のテーマを持つ技術者を全国的な広がりの中から求めるのは、なかなか難しい。しかも、わが国の場合は大都市、とくに、首都圏への一局集中の度合いが大きく、地方都市に柱む技術者は情報取得に関して、大きなハンディを背負ってきた。
 大手の全国ネツトのパソコン通信は、会員がすでに八十万人を超えたと言われている。コンピューター大手の経営するこれらのネツトは、全国にアクセスポイントを持っているので、地方都市からの通信も大都市に比べて、利用料金の負担に差はない。
 この十年間に、単体のパソコンは文字通り個人レベルにまで普及し、機能も向上し、多岐にわたって幅広く利用されるに至った。コンピューターによる建設関連業務に関する情報の処理は、パソコンの普及に伴って、専門的な深さと、対象業務の拡大の両面に、立体的な広がりを見せている。
 ある技術者が技術的な問題に遭遇したとき、パソコン通信のサークルに問いかけると、経験者から過去の経験が回答されたり、資料に関するアドバイスが得られる。文字で表現される場合もあるし、その回答に使用した自作のプログラムをファイルで受け取る場合もある。その回答に対する謝礼の方法などは、今のところはほとんど無料であるが、その代わり、機会があれば他の人に回答を送ることで、支払いに変える。全国的な広がりを持つサークルが、建築の領域にも現れ始めており、その活用を図れば、特殊技能の技術者の活用や、個別の問題解決の糸口をつかむことが可能になる。
 パソコン通信の本格的な活用は、加入者が試行錯誤を行いながら、次第に固めて行くことになるが、ギブアンドテイクの精神が、基本になければ成立しない。あるサークルを乱す意図を持って、加入する手合に対しては、今のところ無力である。それを恐れて、自衛の手段を強化すると、加入希望者に制約を与えることになり、広い、自由な加入者によるサークルが構築できないことになる。高度な情報化社会の活用には、高度なボランティアの精神が必要で、パソコン通信にも今後の試練が待ち受けているが、まずは使い始めることが大切である。

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構造士制度充実のために(1994年4月6日)

 構造技術者協会では、今年度から構造士制度を発足させた。そして、初の構造士が多数誕生した。
 近年、技術者のカバーする技術領域が細分化され、領域内での研究は奥深くなっている。建築の構造分野の技術領域も極めて多岐に亘っている。地盤、基礎、上部構造の新材料、新工法などに加えて、コンピューターによる解析も二次元から三次元、弾性解析から弾塑性解析へ、静的解析から動的解析、基礎地盤と上部構造との連成解析へと、幅広い。これらは到底一人の技術者でカバーできるものではない。
 一つの建物の設計に当って、各部分に精通した複数の技術者によって構成される構造設計チームによって設計が進められる。そして構造士は、部分を担当するものでなく、全体を統括するものを対象としている。構造士は建築の設計業務の全てに精通した技術者であることが、求められる。しかし、すべての技術領域に精通することは不可能なので、統括者は技術よりも管理業務に長(た)けた人材がその任に当たる。
 今年度は、規定の講習会を催し、出席者の中から主として過去の設計実績を見て、構造士に相応しいと試験委員が認定した者が構造士の称号を名乗る資格が与えられた。
 第一回の今年度は、協会会員の中から一級建築士の登録番号の若い順に受験資格が与えられたが、登録番号の若い順ということは、ほとんど年齢順ということで、今年度の構造士は、大半が六十歳を超えた、社会通念でいえば「過去の構造技術者」である。過去に活躍した技術者の栄誉を称えるための勲章が構造士なら、構造士の制度は成功するに違いない。
 しかし、世の中一般の実務は、四十代以下の技術者が担っており、五十代を超えると実務の第一線というより、過去に培った人脈を利用した顔がものをいう仕事に携わるのが、普通である。
 いま、世の中のあらゆる領域にコンピューターが利用され、かつての手作業の仕事に比し、統括責任者の勘によるチェックは、極めて難しくなっている。そして、初期のコンピューターを使って解析、設計に携わった世代は、既に五十歳の半ばを超え、二、三年の後にはすべて六十歳を超える。
 現在のコンピューターは、初期の時代のそれとは、まったく異なる性能を有し、解析を例にとれば繰り返しのサイクルが極めて速い。ところがこのサイクルは部下に解析を委ねていたのでは、決して速くならない。自ら手を下し、キーを叩き、結果を眺め、初めて速い繰り返しの解析を行うことができるし、自身の経験として蓄積されるのである。部下に仕事をさせていたのでは、その一割も蓄積されない。企業の経営は、それでよいが、技術者として自立することはできない。
 構造士が将来国家試験制度として取り入れられ、実務遂行者の資格として定着することを望むなら、構造士は技術領域を分け、構造士の資格者が認めた結果を役所も尊重しなければならない。その為には、バリバリ仕事のできる世代に、資格を与えるべきであり、過去の業績を称える方法は、別の方法を考えるべきであろう。

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技術者育成と処遇の確立(1994年3月18日)

 バブルの崩壊、というより、長年に亘る高度成長のツケが、社会のあらゆる所に顕在化してきた。企業における技術の空洞化もそのうちの顕著な現象の一つである。
 建設業関連の設計あるいは施工に関する技術的な仕事が、大手建設企業の社員だけでは収拾がつかなくなっている。客先に対する挨拶の仕方や上司の顔色を読むことは極めて上手だが、技術的な内容に関する話題に触れると、何も応えられない技術担当部長が沢山誕生した。
 技術の話は課長に振る。課長は係長に振る。係長は担当に振る。担当は更に外注企業の担当に振る。何のことはない。その会社にはその技術に関して誰も内容を把握していないことが分かってくる。そして、「それはおかしい」と思う人が企業内に極めて少なくなった。
 技術が、高度化してくると専門が細分化する。極度に細分化された技術領域では、その全てに精通する技術部長はいないのが当然である。しかし、およその内容を掴まなくては、客先の技術担当者との会話も進まない。
 ひと頃、技術者の仕事を工数と単価で管理する手法が流行し、技術者の頭脳の働きに対する評価が疎かにされた結果、技術的な仕事に没頭する技術者が極端に少なくなった。自分が技術的な仕事に没頭している間に、自身でものを考えずに、下に丸投げした人の方が、生産性が上がると評価されたことも原因の一つである。この種の管理手法は、右肩上がりの成長期に限って、通用する単純な理屈であることを企業のトップが忘れ、成長が止まったり、バブルがはじけたときの心構えを怠ったために生じた空洞化現象である。
 人間の能力は、昔も今も変わらない。鍛えれば、向上する。鍛えなければ退歩する。鍛え過ぎれば壊れる。そこのぎりぎりの鍛練が人間の素養を伸ばし、人の集団によって構成される企業を強くする。
 建設業は、もともと多くの職種にわたる専門職を使って成り立つ業である。各職方間にまたがる技術的な調整点は、数限りなく存在し、その解の中からその時点における最適な解を探しながら仕事を進めるのが、建設業における技術者の仕事である。そのためには、各職方の仕事の内容、技術の動向、人の手から置き換わるべき機械設備の進歩の動向など把握していなければ、職方間のバランスはとれない。
 コンピューターに関する技術もその一例である。コンピューターが進歩して、あらゆる分野に浸透してくると、その技術的動向をいかに把握するかもまた大切である。単に、メーカーやソフト会社の営業の口上を鵜呑みにしては、将来を見通した実態の把握はできない。
 コンピューターを製造する技術と利用する技術は全く異なる技術領域であり、利用する技術に関しては、建設業は見識ある相応の専門家技術者が必要であり、メーカーの受け売りではなく、自分自身の見解を管理者に訴える技術力を養わなければ、その職は勤まらない。
 そうした技術者の育成と処遇の確立は、あらゆる領域に必要であり、高度成長期からバプル経済華やかなりし頃の名残を払拭(ふっしょく)しなければ、建設業としての存立すら難しくなる時期が近づいている。

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本格的パソコン時代の到来(1994年2月21日)

 ここにきて、コンピューターは一段と小型化、低廉化、高機能化が進み、従来不可能とされていた処理が、次第に実用の可能性をおびてきた。これはパソコンの話である。
 それに引き替え、汎用機、ワークステーションなど従来、パソコンとは一線を画して、遥(はる)かに上位の機種と思われていた機種は、遅々として機能が向上しない。ネツトワークを引きまわして、一台の機械をファイルサーバーとして、単機能を背負わせ、同時に、二、三台の機械に処理を並列に行わせるような仕組みで、処理の遅さをカバーしていた上位機種群は、そのうちの一台を最新のパソコンに置き換えた瞬間に、上位機種であることの権威を失墜する。メーカーは懸命に釈明に努めるが、格段の能力差を埋める術はない。
 パソコンのソフトにかけるエネルギーと同じ程度では、ワークステーションは動かない。数倍、十数倍のエネルギーをかけて、何とか処理の遅さを繕ってきたが、今や、ソフトの互換性が非常に高まってきたので、過去に開発されたソフト群が、パソコンにほとんど何の変更も施さずに移植が可能になり、コンピューターの小型化、低廉化に一段と拍車がかかってきた。
 建設業界は、まさに不況の最中であり、手練手管を用いてユーザーを大型機、中型機の信奉者に巻き込んできたコンピューター業界は、最も機種変更のし易い時期に利用者企業のパソコンに対する理解が深まり、小型機種への移行の機運は高まってきた。
 問題は、パソコンが使い易いがために、現業部署の人びとが、自らパソコンを操作して、処理結果を確認する必要が生じてきたことである。かつてのコンピューターは、データ入力も操作も、専門の人たちに口頭で依頼すれば、結果を眺めるだけで仕事が進んでいた。もっと以前には、すべて手作業で自分自身が処理を行うのが当然とされていたのだが、コンピューターが妙に未成熟であったために、だれもがコンピューターに直接触れることができなかった。
 その為、コンピューターの周辺には専門の操作員、専門のプログラマーなどを配置して、紙の上の結果だけを見ることが仕事になってしまい、それが、専門職を育てる弊害にもなっていた。
 コンピューターが幾分進歩した時、ようやく端末機に触れる機会を得られるようになったが、他人に命令して済ませていた処理を、自分がしなければならなくなった時、慣れるまでの暫くの間は、戸惑うものである。ましてや、手作業に比べて大きな制約を受けながらしか利用できない、大型機の端末機や、ワークステーションの類の操作は苦痛を伴う作業であった。これは、すべてコンピューターが未成熟であったからである。
 パソコンの能力が向上するに従って、コンピューターが成熱度を増し、ようやく以前の手作業の感覚での操作が可能になってきた。パソコンを使ってもコンピューターが苦手だという人は、その業務そのものが向いていないのだと思うべきである。さんざん、未成熟な機械を慣わされてきた人びとにとって、今度こそというのは、狼少年を連想するかもしれない。それほどコンピューターには騙(だま)され続けてきたともいえる。

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仕事の効率と道具の性能(1994年1月20日)

 パソコンは、メーカーから新しいモデルが発売される毎に、少しずつ性能が向上する。価格は、幾分下がるが、新機種の場合、購入する記憶装置やディスクの容量が以前より増えるので、結果的にはーセツトの価格はほとんど横這いという状態が続いている。
 古いパソコンは、「自分の仕事の効率に直接影響を及ぼすから」という理由で、若い人たちは使いたがらない。三年も前に購入した機種は古い機種に分類される。その時代には、結構、処理の速さに感動したこともあるのに、一度、より早い機種を経験すると、遅い機種には手を出さなくなる。
 これは、今時の若い人たちの悪い風習だと、かねがね苦々しい気持ちで見ていた。そのような風潮に反発する意味もあって、古い機械をあえて使って仕事をしたこともあった。
 最近、98ノートのNEという最新のパソコンを、仕事の都合で購入した。締め切りの迫った原稿を書く必要があって、その機械でいつものワープ口を使って文章を書いた。文章を打ち込む速さは、自分のキー操作だから遅い機械と変わらないと思って書き始めたが、いつもより何となく早く書けるような気がした。最終的に書き上げた時の時間は、いつもの半分程で、終わっていた。
 ワープ口の機能というのは、文章を書くときには、ローマ字を打って、漢字に変換させて、という繰り返しだから、コンピューターの速度の差は、変換の速度の差が大半を占める。古い機種の場合、ほんの微少な時間ではあるが、常に、変換が終わるのを待つ状態で、次の入力を行っていたのだろう。
 新しい機種の場合、逆に、常に入力されるのを機械が待つ状態になる。機械が待っているということは、入力を多少ともせかされることになるので、余計なことは考える暇は無くなり、自分の頭も次に打つべき文章に集中できる。そのようなサイクルが、うまく回って、結果的に全体の早さが二倍になったのだと、妙に感心した。
 古い機械を捨ててしまうのは、いかにも、もったいないと思う。しかし、自分の仕事の速度が半分に落ちてしまっては、再び古い機械を使う気がしなくなってしまった。古い機械から新しい機械への切り換えの時期の選択は、微妙なところもあるが、しばらくは新しい機械を使うつもりである。
 ワープロの日本語変換という機能は、今のところ出来ることと出来ないことが比較的はっきりしており、CADなどのようにパソコンの性能の向上に合わせて、ソフトの機能を盛り込むという要素は少ないので、キーの打ち込みの速度が上がらない限り、全体の速度がそう簡単に向上しないから、それほど早い機械は必要ないと思っていた。速い機械を欲しがるのは、若い人たちの我が儘が強すぎると思っていた。
 ソフト開発にしろ設計にしろ、新しいパソコンを欲しがるほど、根を詰めた仕事ができることを、むしろ、誇りに思うべきだと、目から鱗(うろこ)の心境である。古い機械に馴染んでしまっては、人の能力の開発が止まってしまう。不況を背負いながらでも、やはり道具の良いものを求める姿勢は大切にしなければならない。

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