1992年 2月−12月

設計データの施工への活用(1992年12月1日)

 パソコンの性能向上とともにコンピューターが普及し、設計、施工の各分野に定着した。
 設計の中でも企画から実施図面の作成まで、幅広く随所にコンピューターが利用されている。各作業分野における個々の業務への利用が進むにつれて、各業務間のデータの交換、転用が必要になってきた。
 個々の業務ごとにデータを打ち込む作業は、作業量そのものも負担になるが、関連する業務間の整合をとる作業は、より負担も大きいし、整合の取れないまま作業が進んでしまうことの被害の大きさは計り知れない。
 意匠図、構造図、設備図相互間の不整合は、実際にしばしば起きているが、これを建設現場で施工図を書くことによって発見し、整合をとってことなきを得ていた。コンピューターの導入により、構造図と意匠図、あるいは設備図がそれぞれ別個のシステムにより作図されると、データ入力の過程に不整合の生じることを避けることは、なかなか難しい。また、施工図の中でも現状は、躯体図、鉄筋加工図、鉄骨加工図、平面詳細図などを書くシステムがそれぞれ個別に開発され、設計図面を元に新たにデータを入力して運用されている。
 俗に、川上、川下と呼ばれる設計と施工の作業の間に、情報の交換が行われるが、その大半が図面と仕様書に表現される。その不足を打ち合わせ、つまり口頭によって補ってきたが、コンピューターによる作業範囲が拡大するにつれてコンピューターに入力したデータも、重要な交換情報として活用される機運が生じてきた。
 施工順序を追って考えれば、データの基本は構造図であろう。従来は、意匠図に合わせるように構造と設備が追随して作図されてきたが、実施図面に関しては、構造図をまず完璧なものにして、それに意匠、設備が付加作業を行うように作図すれば、下流側へのデータの流れは、スムーズになりそうに思える。
 当然、構造図の作図に当たって、意匠、設備からの要求事項は、事前に知っておかなければならないし、作業の進行に従って何回も作図の修正が行われることになるので、構造設計者の作業負担は、現状に比べて倍加するはずであるが、後から梁貫通の処理を急遽考えたりすることを考えれば、構造図を作図する時点ではっきりしている方が、その後のトラブルははるかに減少する。
 長い間に習慣忖けられた仕事の流れを、コンピューターを中心とした流れに変更することは、なかなか大変なことである。
 しかし、ここまでコンピューターが普及し、個々の処理には十分に機能しているのだから、もう一歩進めて、建築生産における情報の生成と、その活用というテーマに取り組み、スムーズに運用の実績を上げるべき時期がきているのではないかと思う。
 現在のコンピューターの機能が、飛躍的に向上することは期待できないから、現状の処理の負担を増やすことなく、運用方法を考えることが 現実的であるし、いったんコンピユー夕—に投入したデータを活用するためには、処理の流れの変更も必要である。

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許せぬ国際単位系押しつけ(1992年10月27日)

 十月六日付の朝日新聞の論壇に、三笠正人氏が「経験則に逆行する新単位系」と題する一文を載せていた。
 日本学術会議が国際単位系(SI)に全面的に移行した後の、実務者の混乱に対してほとんど無理解、無関心であることに触れていた。学術会議の標準研究連絡委員会に、工学分野の実務者が加わっていないらしいことも不思議なら、学術会議が実務を混乱させる要因となる問題を、実務者がまったく知らないうちに改変してしまえるような仕組みが、いつの間にできていたのか理解に苦しむ。
 地球上に建設することを前提に仕事をしている建築土木の分野に、二ユートンの運動法則を前提とするSIを持ち込まなければならない必然性はないはずだし、ミサイルの飛来に備える設計が、そう度々あるとは思えない。
 既に、建築材料に用いられる鋼材のJIS表示を無理やり変えさせられて二年に近いが、過去に二桁の数字で呼ばれていた鋼材を三桁で呼ばなければならないだけで、実務的な負担は大きかったし、日常扱っている数値に実感からほど遠い、つまらぬ化粧をさせられたという印象が強い。
 SD30をSD295に変えた末尾の5は、材料の強度を現しているとはいいがたい。製品のばらつきの範囲に入ってしまうような数値をもて遊ぶだけの改悪を、お上の名を騙って押しつけることが許される社会は、恐ろしい。 改悪の裏に、一体なにがあるのだろうか。工学者と理学者の葛藤(かっとう)や、文部省と通産省、建設省との縄張り争いなどは、工学実務者には関係がない。実務上の混乱には目もくれずに、権力を暴力的に行使する姿勢には、国民的総意をもって立ち向かう必要を感じる。一立方米の水はートンで、一トンの力が下向きに加わると考えて成り立つ実用単位系をもとに、長年の間、日常使いなれてきた数値は、各技術者個々の頭の中で一つの系として組み立てられており、設計図書の作成からチェックまで、仕事のあらゆる部分における判断の基礎となっている。
 もし、その容量の水を9800二ユートンの力と呼べといわれても、人の記憶にもとづく系はそう簡単に切り替えられるものではない。学期末の試験や入学試験の答案をつくるよらな一過性のものでなく、日常の業務に使用じてきた単位系は、技術者の命である。
 コンピューターが普及し、かつてのように、一つひとつの運算を手計算で行うことはなくなったが、すべてをコンピューターに委ねるほどの性能にはほど遠い。コンピューターを適度に使いながら、技術者の判断を必要とする時代は、二十年や三十年では終わらない。コンピューターの出力は、手作業に比べてどうしても大量になる。そのチェックを行う技術者の感を狂わせる単位系の改悪などということを、雲の上にいるよらな権力機構の手で行わせてはならないと思う。

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利用価値高いパソコン通信(1992年9月25日)

 わが国のパソコン通信も、ようやく普及し始めてきたようである。パソコン通信にも全国的に広い利用層を抱えるものから、地方の利用層をある分野に限定したものまで、数百のオーダーを軽く越えるほどのものが利用されている。
 全国的なネツトは、欧米のネツトと相互に乗り入れており、欧米との通信も国内の手順とさほど変わらずに行える。先日、米国に転勤したかつてのソフト開発者に、その後のソフトのフォローを依頼したとき、電子メールを通じて仕様の打ち合わせを行ったが、実にスムーズに交信が行えた。電子メールによって交信を行うには、あらかじめワープロに文章を打っておく必要があるが、ワープロに文章を打ち込む習慣は、定着しているから、交信記録がそのままソフト仕様の打ち合わせ議事録にもなり、面談に比べてむしろ結果的にお互いの意思の疎通が明確に図れたことは副次的な収穫であった。
 また、電子メールは、相手の時間を邪魔しない。あくまでも自分の都合の良いときにメールを送り、相手の都合の良いときにメールを読んでもらえば良いわけなので、時差をほとんど感じさせないから欧米との交信には都合がよい。さほど大きくないソフトの場合には、ソフトそのものを電子メールで送ることもできるし、ソフト検証用のデータファイルのやりとりには利用効果が大きい。
 宅配便は、我々の日常生活に完全に密着した。ファックスもアッという間に普及した。自分自身が荷物を持って移動するのに比べて、宅配便は確かにぜい沢ではあるが便利である。郵便に比べると、ファックスは速いし、電話に比べると相手が不在であっても用件が伝わるし、文字や絵が相手の手元に残るから、間違いも減る。
 電子メールは、従来、宅配便で送つていたプログラムやデータに比べれば、大きさの限界があるが、先方への到着時間は圧倒的に短い。ファックスとの相違は、記録が紙でなく電子メディアに残ることである。交信結果として残った記録の整理、記録を元にしたレポートの作成など、後の処理には圧倒的に利用価値が高い。
 ひところ、建築学会でも、パソコン通信を利用した電子会議を呼びかけたことがあったが、その頃は機が熟していなかったせいか、結局立ち消えになってしまった。いろいろな委員会が開かれているが、今の時代は、人を一堂に集めることが大変困難になった。それぞれ就業時間が短くなったが、終わらせなければならない仕事は変わらないので、移動する時間のロスを少なくするために、電子会議の活用を積極的に進めるべきであろう。会議で、各人の発言をまとめる時、ややもするとまとめる人の主観に左右されがちであるが、電子会議では、各人の意見が明確になり、会議の議事録は誤解が少なくなる。発言者も、よく考えて発言できるから、自分自身の意見をまとめることにも役立つ。
 問題は、パソコン通信の手順を覚えなければならないし、コンピューターに自分自身が触れなければならないから、一度も経験したことのない人にとっては、何となく億劫なものである。そこを乗りこえて参加する人がどのくらいいるかという心配があるが、コンピューターに関連する委員会からでも手始めに始めてみたらどうだろうか。

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建築ソフトの仕様は小さく(1992年8月24日)

 ここで論じるソフトウエアは、建築用のアプリケーションに限っての話である。
  他の製品と建築物との大きな差は、非常に多くの部品から構成されるということと、製品の大きさが大きいこと、一品生産品であるという三点を挙げることができる。
 部品をビス1本、クギ1本にまで逆上って管理することはできないが、長年の経験と調査を基にした歩掛り表には、木造ドア1枚に要する材料に、クギ何キログラムを使うという数値が把握されている。今の時代に、ドアを現場で工作して一品ずつ作ることはしないが、既製品の品質に問題があったり、価格が折り合わなければいつでもオーダーメイドで作ってしまう選択肢を残している。つまり部品そのものは、量産可能なものが増えてきているが、大半は素材を設計に従って加工し、現場に搬入して建て込むという過程を踏む。
 対象とする部品の種類が多いので、毎年建築用資材として提案される新製品の数も非常に多い。その内のどれ程が、実際に設計者の目に触れ設計に取り入れるまで、知識として設計者に理解されるかを考えるとなかなか難しい。
 大きさが大きいということは、原寸の模型を作りにくいということである。従って設計図書が、建築物の仕様を定める基本になる。施主に完成後の姿を説明する手段として、設計図書はあまりに専門的にすぎるので、補助的な手段として模型や透視図を用いる。
 一品生産品は、一つの経験、実績を次の仕事に生かすことが難しいということである。常に、新しい経験をしながら、工事を進めるので、その経験の保存の方法をよほど上手にしないと、場当たり的な仕事に終始してしまう。従来は、経験が個人の記憶に蓄積され、口伝によって継承されてきた。しかも、その経験は、象の頭を撫でるような、広い範囲の中のほんの一握りの事象に対する経験であるから、全体の中での位置づけに関してまではとても及ばない。
 建築生産というものは、技術や情報の把握の極めて困難な仕事である。建築関連のソフトウエアが、限定された範囲内で使用されている限り、設計にも、工事管理にもある程度の効力を発揮する。しかし、使用範囲を次第に拡張すると、一人や二人の経験では到底カバーしきれない多様な仕様の壁に突き当たる。合わせて、コンピューターの能力の限界にもぶつかる。利用者の側からみれば、普段ほとんど利用しない機能の為に、処理の速度を犠牲にされたり、肝心の機能に制約を加えられるのはかなわない。
 建築のソフトウエアが利用され始めると、この場合はこうしてほしいという類の要求仕様が次々に出され、それに対応してるうちにいつか壁に突き当たる。そこまでできるのなら、この位は簡単に出来るのではないか、という話にはほとんど際限がないからである。
 一旦壁に当たると、そのソフトは悲惨である。わずかな機能の追加に膨大な開発工数を要するようになり、ついには利用者から見放されてしまう。もともと、建築の生産方式が柔軟にすぎ、部品点数が多く、過去から将来にわたる工法を継承しながら幅広く対応する建築用ソフトウエアの仕様は、なるべく小さく抑える勇気が必要である。

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残念な所在情報の掲載中止(1992年7月8日)

 日本建築学会では、十年ほど前からコンピューターのプログラムに関する所在を、年に一度のアンケートによって把握し、その結果をこれも年に一度発行される情報システムシンポジウムの予講集の後に掲載していた。
 ところが所在情報の掲載は昨年から中止された。プログラムの所在情報に関する反応がほとんどないのと、質の良い情報が少なかったのが中止の理由である。
 所在情報の掲載中止はまことに残念なことである。所在情報を発行する仕事は、アンケ〜トのフォームを検討し、送り先の名簿を整理する作業に要する労力が馬鹿にならない。労力の割に反応が少なかったという判断なのであろう。
 この種の仕事は、初めての年には委員たちも意欲的に取り組むが、次第にマンネリに陥る。アンケートに答える方も前の年と同じ様式の用紙が毎年送られてくると、それほど深く考えずに、回答を送るようになる。中には、その企業の情報を正しく把握していない人のところに、アンケートが送られてしまうこともある。回答者の姿勢もまちまちで、プログラムの所在を求めている人の参考に供するという気持ちをもって回答する人ばかりでなく、義理で付き合っているという程度の人もいる。企業の方針として、積極的にプログラムの所在を公表し、場合によっては譲渡を考えるというところも、所在は公表するが内容に関しては一切公表しないというところもある。譲渡を前提に回答を作る方が、読む立場にとってより良い情報であるとは思うが、情報というものは少ないより多い方が良いことも事実である。だから、多少無理しても、ある程度の数をそろえようという意識が働くのは、やむを得ないことでもある。それが、行きすぎると、見ても役に立たない情報ということになる。
 一方、この種の情報が利用されているか否かの判断は、なかなか難しい。通常、利用してもその結果を掲敷紙にわざわざ連絡はしてこないものだから、特に、意識して利用動向を調べなければ、反応はないと感じるものである。
 最近、コンピューターの利用が普及し、それに伴って同じようなソフトウエアが沢山市販されているので、利用者の数が多く、使用頻度の高いソフトウエアに関する情報は比較的簡単に取れる時代である。問題は、使用頻度は低いが、重要度の高いソフトウエアに関する情報が少ないことである。
 その種のソフトウエアに関する情報を探し出し、実際に利用して結果を出すことが、大切な時代になってきている。
 ソフトウエアには、長年の経験から得た開発者のノウハウが各所に入っており、たった一度でも利用できればその価使が大きいものもある。もし、新たに開発すれば、開発に長い期間がかかり、結局利用目的が達せられない場合も生じるだろう。
 もちろん、所在情報の作り方の問題も研究する必要がある。商魂たくましい商業ベースのソフトウエアでなく、各社に数多く存在する、その所在情報そのものが貴重であるようなソフトウエアをいかにして見つけ出すか。一年や二年では到底仕上がらない仕事である。
 プログラムの所在情報の収集という地味な仕事は、建築学会でなければできない仕事であり、ぜひ再開してほしい。

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続第五世代コンピューター(1992年6月17日)

 先月のこの欄に第五世代のコンピューターのことを書いた。今月に入って第五世代の研究成果のソフトウエアを、広く内外に無料で配布するという方針を通産省が明らかにしたとの記事を読んだ。
 過去の研究費の総額は十年で五百四十億円にのぼるという。対象とするハードウエアはきわめて特殊な並列推論マシンで。「PIM」というコンピューターだから、ただちに現在の実用機にそのまま使えるわけではないが、ソフトウエアを無料で公開するということは、従来の殻を破る英断である。
 参加企業の人材を養成し、それらの人材が企業に持ち帰った研究成果が、いずれそれらの企業の新商品となって、市場に登場する。この筋書きが従来からコンピューター業界に普通に行われていた、一種の補助金方式であり、この通産主導型の政策に乗って、日本のコンピューターメーカー各社は大成長してきた。
 いま、時代が変わって、日米貿易摩擦を契機として、税金を補助金に使い、巨大企業を育てる方式そのものが欧米の批判を浴びている。補助金によって新製品の開発コストの低減を図り、安い商品を販売して、他国の市場を荒してしまうのは、公平ではないという指摘を受けているわけだ。
 国内にも問題は多い。すでに、コンピューターは、メーカー側の都合だけで新製品を用意しても、売ることのできる時代ではなくなっている。
 利用者側の望む機能と、メーカー側の提供可能な機能とのすり合わせがつねに必要で、ほしい機能が盛り込まれない限り、利用者は使わないから在庫の山を築くだけのことでしかない。
 第五世代のプロジェクトは本年度末で終了とのことだが、その成果を製品化する計画は次年度以降に行われることになろう。その時には、広く利用者層の参画を呼びかけるべきである。
 ひところはやった人工知能のブームは去ってしまったが、潜在的な需要は根強く残っている。
 建設業界は、いまごろになってようやくCIMに取り組み始めた。一品生産の建築に、CIMを取り人れることは、容易なことではない。
 少量多品種の部品から構成され、一品ごとに設計を行うことを原則とする建築の現場に、CIMを持ち込むには、部品のデータだけでも、格納し、素速く検索できる仕組みが必要だが、その見通しすらたっていない。
 また、現場の納まりを正しく図化できるCADシステムの見通しもたっていない。建築の設計者が設計に当たって、何を考え何を根拠に設計を進めているかの解明すらできない。
 いまのコンピューターでは、なにか一つのテーマでさえ、容易に実験できる能力がない。
 データベースとして保管した部品情報を使用した設計図面が自動的に書け、必要な情報を、工作機械に渡すためには、将来のコンピューターの姿を思い浮かべ、それにつながる手法の選択を行い、実際にデータの積み上げを行わなければ、CIMなど遠い先の夢でしかない。
 建設業界が、業界を挙げて未来のコンピューターの仕様づくりのために、第五世代のコンピューターの研究成果をトレースすることを考えたいし、今がその時期である。

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第五世代のコンピューター(1992年5月18日)

 第五世代のコンピューターと大々的な花火を打ち上げ、華々しくスタートした大きなプロジェクトの目標は、十五年先との説明であった。一九八二年に旗上げしたわけだから、既に十年が経過した。
 その当時からの計画によれば、あと五年で、第五世代のコンピューターをこの目で見ることができる。本気で、そのようなことを思っているのは、この種のプロジェクトについて、あまりにものを知らな過ぎると、叱られそうである。しかし、もしもその実態が、十五年にもわたって多額の国家予算を消費し続けた結果、多少の研究成果を、協力した民間各社が自社に持ち帰って各社の製品の一部に使用され、「それでおしまい」というのでは、あまりに一般国民をないがしろにしていると批判されても仕方あるまい。成果はこの通りと、書類の山を見ることはできようが、それは単に当事者の言い訳にすぎない。やはり、試作程度であっても、成果品を一般に公開するべきであろう。また、製品化のプロセスには広く利用者層の参画を呼びかけるべきである。
 現在のコンピューターは、既に技術的な行き詰まりをみせている。ベストセラーを誇ったパソコンメーカーの新機種でさえも予想外の売れ行き不振にあえいでいると、報道されている。不況感からの買い控えのみではなく、変わりばえしない新製品に魅力を感じなくなったとの見方が有力である。
 建設業界はCADが大流行であるが、次世代につながるCADではない。手書きの図面の代わりに、マウス、デジタイザー、キーボードなどを使用して描いた線や文字をプロツターに出力させるという手法からすれば、同じ分類の作図法である。描かれた図面は、人の目を通じてしか理解できない。データベースとして保管し得ない形式の図面は、工作機械にわたす加工情報にはならない。近い将来には、CADの新しい手法に切り替えなければならない時が必ずやってくることになる。その時には、将来のコンピューターの姿を思い浮かべ、それにつながる手法の選択を行い、データの積み上げを行わなければ、過去の技術の蓄積が未来に活用できない。
 建設業界が、業界を挙げて未来のコンピューターの仕様づくりのために、第五世代のコンピューターの研究成果をトレースするには、今がその時期である。
 コンピューターは、業務遂行の道具である。道具屋に対する注文は、その可能性と利用効果を見極めた上で行われなければ、使える道具にならない。従来は、コンピューターメーカーが、ここまでできましたと、一方的な判断で作られた道具を利用者が何とか工夫し、膨大なソフトウエア開発を行って、どうにか使い続けてきた。苦労しながら使い方を模索し続けてきたというべきであろうか。
 その結果、今のアーキテクチャーにおける能力の限界が明らかになった現在、利用者の利用目的に沿った、使い勝手のよい道具の仕様を、第五世代のコンピューターの研究成果を活用して行いたいと思う。コンピューターメーカー各社にとっても、通産省当局にとっても、歓迎するべきことではないだろうか。

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コンピューターヘの認識(1992年4月14日)

 コンピューターの普及につれて、コンピューターの周辺に様ざまな新しい職業が生まれる。ソフトを開発したり、ハードとソフトを組み合わせて販売したり、マニュアルを作ったり、ソフトを利用するための教室を開いたり……。そして、それらに携わった多くの人々が、思ったほどうま味のある仕事ではないことがわかって、業界から消えてしまう。
 AI(人工知能)という言葉がひと頃はやった。いまにも専門家が不要になり、AIシステムが専門家より優れた判断を下す時代がすぐそこにきているような錯覚をさせられた。しかし、人間の柔軟な思考に匹敵するコンピューターはまだまだ夢の話である。AIのシステムを販売していた人びとは、ほとんど消えてしまつたし、第五世代のコンピューターなどと思い切った花火を打ち上げた通産省も、このごろはひっそりと、静かになった。
 今の段階では、せいぜい単純計算がすばやくできるという程度がコンピューターの限界である。単純計算の結果をすばやくだせるという能力は大変貴重である。その程度に限定してコンピューターを使えば、人手だけで行う処理に比べて、はるかに効率が良くなる。各分野の専門家が結果を利用すれば、条件を変えて繰り返し計算を行うことが苦にならなくなり、より正しい判断が下せるようになる。これが、コンピューターの最大の利用価値だと思う。
 どんなに時間をかけても自分にできない処理をコンピューターにさせようと思い、今のコンピューターにさせようと思っても、今のコンピューターでは所詮無理な話で、ゆっくりと時間をかければいつかはできる処理をコンピューターに委ねれば、手作業よりよほど早く済む。
 冷静に考えれば誰でもその程度のことはわかっているはずであるが、コンピューターメーカーのデモルームやショーの会場などで、鮮やかな手捌きで、作図をさせたり、計算をさせたりしている所を見せられると、コンピューターが人間の知能をはるかに超えてしまったような気持ちにさせられ、つい焦ってしまう。
 筆者は、いまだに囲碁や将棋の新しいソフトが売り出されると、ほとんど買って試してみる。そして、その都度がつかりさせられる。五年前のソフトとほとんど変わっていないからだ。ソフトの開発者の立場からすれば、この五年間に大変な努力を傾けたから、内容的に随分向上していると思っている。しかし、利用者からみるとそれほど変わっていないと思えるのは、ソフトの宿命ともいえるのではないだろうか。
 囲碁のソフトに地の計算をさせると、決して間違えない。しかし、死活の判断は現時点で正しくできないので死活は利用者がはっきり定義しなければならない。この限界を突破するのは、今のコンピューターには当分不可能である。将棋のソフトは序盤と終盤は見事であるが、中盤が全く駄目。将棋のある一流プ口は、アマチュアの七級くらいかと評していたが、さらに強くすることは十年程度ではできそうもない。ただし、棋譜の分類整理などには、コンピューターは大きな威力を発揮する。
 あくまでも主体は人間で、コンピューターは単に道具だということを忘れてほしくない。

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不況を迎えて姿勢を正す(1992年3月18日)

 このところ、各業界の不況が次第に深刻化し始めたようである。
 コンピューターの業界も、汎用機をはじめとして、EWS、オフコン、パソコンに至るまで、軒並み、売上が下がって、三月期の決算に赤字の計上もやむなしとする関連企業もあらわれるという。
 この数年は、異常な好景気が続き、不況に対する警戒心が薄れていたせいもあって、バブルの崩壊とともに一気に訪れた不況に対して慌てぎみの各社の対応の報道が目につく。
 好況から不況への様変わりは、建設業界へも集合住宅を主体としてきた企業から次第に影響が出始めている。建設業界もご他聞に洩れずこの両三年の好況は特に異常で、大手各社は従前の三倍を超えるほどの売上増を計上してきた。予算に合わずに不調となった公共工事の記事も昨年まで随分目についたから、建設工事費の価格水準は好況の間に高騰していたのだろう。好況のさなかには人手不足や材料不足で、鉄骨の加工業などでは三年は新規の仕事を受けられないと公言し、需給の関係から建設費の高騰もやむなしの風潮もあったし、土地の価格とのバランスも、建設費の高騰を暗黙に許容していた。しかしいずれ、以前の水準に戻らなければ、異常な好況が去って、結果として残るのは物価高ということになり、何をしてきたのか分からない。
 バブルのーつと悪評の高い、土地ころがしに端を発した地価高騰とそれに便乗した建設費の高騰に根ざす、都会におけるビルの賃貸費用の増加は、設計事務所、ソフトハウスといった知的作業を業とする職種が、仕事の場にできる限界を超えてしまっている。この数カ月の間に、夜逃げ同然に事務所をたたんで消え去ってしまったこれらの職種の人々の経営能力を一方的に非難できない状態である。
 不況の訪れとともに、好況の裏に隠されていたさまざまなバブルの実態が明らかにされ、やりきれない思いが募る。大都市の地価の高騰は、税収を増やし、直接関わり合った不動産、銀行などの一部の関連業種の懐をほんの一時期肥しただけで、最終的には庶民の生活を圧迫するだけで何のメリツトももたらしていない。
 建設業は、日本という狭い国土に住む国民にとっては、生活に極めて大きな影響をもたらす業種である。
 近年は、特に建設材料の種類も多岐にわたり、数多くの業種に関連する。自分の身の回りのことだけでなく、より大きな視野をもって日常の仕事に取り組まなければならない時代である。
 再び、好況を期待する財界の声もあるが、国民を不況に耐えさせてでも、定年間近な企業のトップ達の面子や政界、官界の一部の思惑に振り回されることのないように、もっと長期にわたって国民の生活に寄与する政策を打ち出すべき時である。単に生活水準の向上を目指すだけでなく、後生の人びとのために捨石になる覚悟で、根本的な政策を策定してほしい。
 建設業が中心となって、不況に耐えながら現在と未来とにわたる経済の基盤と充実した生活の基盤をつくり直さなければ、バブルの付けは解消しない。

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CADの効果的な利用法(1992年2月19日)

 CAD、特に建設用と称するCADは、この数年間に驚くほどの量が建設業界に導入された。CADの種類はざっとニ百種類にも及び、CADの開発会社、販売会社の多くは急成長した。しかしこのところ、昨年からのバブル経済の崩壊の影響を受けて、CAD関連の急成長した企業群のいくつかが窮地に陥っているとの噂話を、しばしば耳にするようになった。
 CADの利用実態はなかなかつかみにくいが、CADを購入した利用者の八割は利用していないと見られる。これは販売者にとっても、利用者にとっても不幸なことである。CADを利用するには、利用者側がその機能に習熟するまでの辛抱が必要である。導入初期の訓練だけでなく、実際の図面を描きながら、場合に応じた最善の処理法が頭で考えて分かるのでなく、自然に手が動くまで習熟して、はじめて手書きと比較できる効果を得られる。
 CADには大別して二種類あり、過去に普及してきたCADは、いわゆる汎用CADと呼ばれるものであるが、この種のCADの場合、頻度の高い図形モジュールの登録作業を含めて、導入後一年間は手書きの水準に達しない場合が多い。その間に急ぎの仕事をこなさなければならない時、CADのまどろこしさに耐えきれずに手作業にもどってしまい、いつかやらなければと思いながら気がついたときには一年経ってしまった
 というCAD導入者が大半である。
 もう一方のCADは、自動作図を行うCADである。作図の対象を絞って、コンピューターに自動作図させるので、作図の対象がCADの機能と一致した時には驚くほどの効率になる。利用者がつい騙されるのはこの種のCADで、デモンストレーションの会場であざやかに図面が描けるのを見せられると、つい購買意欲をそそられる。この種のCADは自動作図の作図可能な対象が限られており、その限界を見極めるには、そのCADを使用して実際の設計図なり施工図なりの図面を、自身で描いてみるのが最も良い方法である。販売者の用意した練習問題を練習して役にたつのは汎用CADの場合で、自動作図CADの場合は操作の習熟は難しくないので、練習よりも機能の限界の把握を第一にした試用が必要である。
 それぞれのCADの長所短所を心得て、販売者の説明を聞きCADを選択しないと全く使いものにならないCADを購入してしまうことになる。
 CADを使用して作図作業するのは、時代のすう勢であり、早晩CADによる作図がより普及することは間違いない。折角購入したCADが実際に使用されずに御蔵に入ってしまうのは、利用者はもとより、CADの開発者にとってももったいない。所を得たCADは、手書きと比較にならない作図の効率が得られるし、間違いも激減する。自動作図と汎用CADの使い分けと、それぞれの長所短所をわきまえた利用法を、建築家の手で確立したい。
 今、その時期がきていると思う。

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