1991年 1月−12月

長期見通しに基づくCAD(1991年12月10日)

 建設業界にCADシステムをはじめ、ネットワーク、データベースなどが次々に導入されている。個別の業務にコンピューターを利用した効用は、関係者が実感をもって認めている。しかし、一連の業務の流れとしての成果は、なかなか発揮されない。
 CADシステムを使用して設計図面を引き、手書きの図面と対比して、その効用を説くのは、主としてCADシステムの販売者である。利用者は、実感としてはその効用が感じられない。CADによる作図の後に、むなしささえ残る。
 設計者の最終成果物は、建築物そのものであって、作図はその過程の一部に過ぎない。
 図面がなくても建物が設計者の意図のままに作られるなら、図面は不要である。設計者が自身でスケッチを重ねることによって、構想を次第に具体化するプロセスでは、スケッチが自身の頭脳の回転を促し、一つの結論が導かれる。過去の資料をひもとくことも、材料メーカーの資料を調べることも、スケッチと同様の働きをする。その段階で使えるCADシステムは、どのようなものであろうか。
 建築物の生産方式が、既に大きく変わり、多くの部品が工場で加工され、運搬可能な大きさにまで組み立られて現場に搬入される。工場内の作業比率の増大は、作業環境の改善と大幅な生産性の向上に寄与する。工場内では、見込み生産品を量産してストックすることもできるから、部品の単価を大幅に下げることに繋がる。その代わり、規格外の部品の単価は比較にならないほどコスト高につく。それらの部品情報を把握しなければ、よい設計ができない時代である。
 コンピューターは、設計、施工の現場に浸透している。個別利用の段階からもう一歩進めて、設計の情報が製造工場に流れ、また逆に生産現場の情報が設計にフィードバックされることを前提とした建築設計用のCADシステムは、まだ実用になっていない。建築の場合、縦の流れだけでなく、意匠と構造と設備など横の連携も大切である。すべてを一度にはとてもできない。
 コンピューターの製造技術は、この二十年の間に急速な進歩をとげ、信頼性の向上、コストの低減が実現した。それに比して、ソフトウエアの開発技術、データの蓄積方法は一向に進歩した形跡がない。ハードウエアの場合、新機種は前の機種に比べて価格が安いか性能が良いか、テストをすれば一目瞭然でなければ売れないし、利用者は判断しやすい。ソフトウエアは、機能的な追加が必ずしも性能の向上に直結しない。例えば、実行速度が落ちたり、記憶装置を増強しなければならなくなったり、トレードオフの関係がつきまとう。どの機能を重要視するかの判断は、ソフト利用者の背景によって大きく異なるので、利用者側の将来を見通した長期の利用計画が基準となる。ハードウエアの進歩は、速度、容量ともに十年間にせいぜい十倍程度の実績である。
 ソフトウエア側の要求は現在十年先のハードウエアが供給されても、たちまち使いつぶしてしまうほど大きい。ソフトウエアは、その時のハードウエアの機能に合わせて、最善の機能の組み合わせで我慢するべきで、その取捨選択の判断を利用者側で行えるCADシステムが必要なのである。

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設計家の情報ルート確立(1991年10月24日)

 建築物の生産方式が徐々にではあるが変わり続けている。現場の各職方の後継者不足に伴う高齢化は、年とともに確実に進み、すでに独立の職として成立せずに自然消滅の危機に立たされている職種もある。
 専門職というものは、市場がその職能を育てる。一つの職能に対する需要が増大するとその職種は隆盛になるが、需要に対して技能者が不足してくると、一方では、需要を賄うための代替の手段の研究が進められる。専門職の技能の一部を、自動機械に置き換えて省力化を図ったり、新しい材料の開発によって別の職種に代替する。鉄骨構造における型鋼、高カボルト等の材料の開発、加工技術の変遷は、典型的である。また、現場の組立技術も大型の建設機械の開発によって大きな変革を遂げた。
 建築の生産方式が一部変化すると、設計家の仕事の内容が変化する。建築物を構成する材料、職方の種類は極めて多いので、工法の一部の新しい試みの情報が、設計家の仕事に影響を与えるまでには、長い時間が必要である。設計事務所という組織に伝えられた情報が設計家個人の情報として蓄積され、設計の内容に影響を及ぼす。その情報の伝達方式は、役所の通達の類のようには簡単に末端まで伝達されない。民間の企業努力による改変の情報の伝達は、広告、新聞雑誌などの記事、学術論文、体験者の経験談等を通じて徐々に伝達される。
 大きな組織に所属する設計家と個人レベルに近い設計家との間に、情報伝達の経路に差があるのはやむを得ないが、得た情報の活用方法については、建築家個人の感性、才能に依存するわけだから、所属する組織の大小によって差がでるとは思わない。小規模事務所の場合、時代の変化の兆候となる情報の入手経路に気を配らないと、次第に時代に取り残される。
 幸い、現代は学会、新聞、雑誌などのほかに、通信やコンピューターが発達し、これらを利用したパソコン通信などの媒体も普及しているので、環境の整備はある程度整っている。コンピューターを利用した媒体の問題は、次々に発生する新たな情報を分類整理し、情報としての利用価値に差をつけて格納しておく仕事を誰が行い、その費用を誰が負担するかということである。
 わが国の情報に対する価値観は低い。現状では、取得した情報に対する金の支払いはなかなかスムーズにはいかないが、建築家の財産は建築生産に関する情報の蓄積である事を思えば、建築家そのものの存在価値の将来を左右する情報の蓄積に、もっと大きな関心を払ってほしいと思う。
 情報の蓄積を役所の組織にまかせては、建築家という職能そのものが否定されてしまうかも知れない。あくまでも建築家自身が自主的に、根気よく情報の蓄積を行う努力を、個人レベルではなく、さりとてそれはどの大組織ではなく、グループで行う方策を見いだしたい。そして、設計者が施工者から施工不可能と設計の変更を強要される事態を、設計者側の施工の実態を正しく把握する努力によって回避できるように、しっかりした新製品、新工法に関する情報ルートを確立したい。

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カラープリンターの応用(1991年9月18日)

 パソコンの周辺機器のーつとして、カラープリンターが実用化してきた。まだ、価格が四百万円を超えるので、急速に普及するとは思えないが、モノクロのレーザープリンターに比べて、急所に色付けして出力された資料類は、読む人に訴える力がある。
 カラー化が効果を発揮するには、文章に挿絵や説明用の図面、さらに写真を添付できるDTP技術の確立が前提になる。図面や写真を読み取るためのイメージスキャナーは、既にパソコンの周辺機器として普及している。読み込んだ図や写真を文章とともに編集するいわゆるDTP(デスクトップパブリツシング)のためのパソコン用ソフトもかなり工夫されたものが市販され始めている。文字の大きさ、縦横比、活字フォントが自由に選択でき、文章や図面のレイアウトの操作性もすばらしい。これらを使えばほとんど100%印刷用の版下が完成してしまう。
 DTPの環境の進歩に比べて、設計図面作図のCADの進歩は緩やかである。行き詰まりすら感じさせられるが、むしろ、ここまで進歩したDTPを活用した作図法の研究をする方が近道ではないかとも思う。
 DTPのセツトを与えられて、建築技術者に残された課題は、実際の業務に利用することだけである。道具としてDTPを使い、仕上がったドキュメントの蓄積がデータベースとして検索できたり、工程管理のシステムと連動して、客先や監督官庁への提出書類の管理、作成に利用されれば、OA化の効果は急速に向上する。
 そして、必要に応じて色付けされた図を報告書に入れられるようになれば、書類の間違いの見落しなども減少する。単に色がついたというだけでなく、色がつけられるということによって書式そのものが変化する。設計上特に工夫した部分を強調したり、施工時に注意するべき部分にカラーマークを施すこともできる。また、設計図面の表現方法も今の三面図、断面図を主体としたモノクロの作図法とは根本的に異なるアイソメ図や透視図を主体とするカラー表現の新しい方法が編み出されるかもしれない。
 現在、建設省を中心に確認申請のOA化の検討が進められていると聞くが、従来の手法を継承して、単にコンピューターによる自動化という過去の延長線上にOA化の目標を置いていると、せっかくの改革の機会を逃してしまう。かつてはメーカーの提唱するシステムが、唯一の実現可能なものと考えられていたが、現在は利用者がメーカーとは独立の立場のシステム設計者と協力して、新しいハード、ソフトの情報を自分の目で確かめながら収集し、システム設計を行う方がより良いシステムを構築できる時代である。DTPとCAD、ワープロ、通信機能などを駆使した設計システムの構築には、設計図書の製作者、申請図書を受ける役所、現場の施工者を含めた利用者が、積極的に新しいパソコンの周辺機器類を研究し、システム設計に参画できる道を関く必要がある。
 カラープリンターは、一つの周辺機器にすぎないが、読む人にとっては豊かな情報が含まれている資料である。

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「ISDN」通信への期待(1991年8月21日)

 コンピューターの周囲をとりまく通信環境がかなり整ってきた。パソコン通信が実用化されてから既に八年、メッセージ通信の応用のーつとして、プログラムの転送メディアとしても利用可能となり、遠隔地におけるプログラム開発に活用の期待が高まっている。ただし、転送速度は九・六Kbpsが限界なので、規模の大きなプログラムを送るには適さなかった。
 昨年から、ISDNという高速の通信網が実用化し、パソコン向けのインターフェイスが市販されるに至って、にわかに応用分野が広がってきた。例えば、自動作図CADのプログラムの保守がスムーズになる。自動作図CADによって作図を行う立場では、せっぱ詰まった図面提出の日限を抱えて仕事をしており、ソフトに何らかの問題があって仕事が止まってしまうと、どうしようもないパニック状態に陥ってしまう。ISDNが利用できれば、原因追求のためのデータをユーザーの使用しているコンピューターから、直接ソフトの保守会社に取り寄せることができ、不具合いを修正された後の最新のソフトを、利用者は保守会社のコンピューターから吸い上げて、作図作業を継続できる。以前、ISDNが利用できないときには、宅配便を使ってデータやプログラムの受渡しを行っていたので、利用者の手元に最新のプログラムが届くまでに数日かかってしまう。その間、利用者はさし迫った締切日にいらいらしながらじっと我慢させられる。一度そのような目に会うと、もう二度とCADをあてにした仕事はできないと思ったものである。
 随分進歩したといわれるコンピューターも、一面では手作業に比して不自由極まりない代物である。処理が速くて当然と思われているコンピューター処理だから、その処理速度を当てにした計画を立てる。ところがいったんトラブルに巻き込まれると、利用者の打撃は一段と大きい。
 新幹線を利用する出張スケジュールを立てて、事故に出会って計画がめちゃめちゃになったようなものだが、だからといって、今さら在来線を乗り継ぐような仕事を計画するわけにもいかない。世の中全体が速いことを前提にした計画で動いているから、恐る恐るコンピューターを使用するより他はない。
 コンピューターの機能が、データ処理の速度のみが突出し、これを取り巻く環境は未整備である。ソフトウエアの信頼性の低さもその一つであるが、現在のところ、品質を保証する技術が確立されていない。せいぜいバグが発見されたときの対応をすばやくして、信頼性の低さをカバーするよりない。バグが発見された時の対応には、いち早くバグを生じる条件を揃えることが必要である。
 ISDNの実用化は、コンピューターシステムの持つ本質的な欠陥を、全く別の面からカバーできる可能性が期待できる。今後、多くの応用分野にわたって、各種の関連ツール類が広く開発されることになると思うが、利用実績を積み重ね、不足している諸々の条件を一つひとつ潰して解決すれば、コンピューターを中心としたシステムの実用化が一段と進むことになろう。

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困難なソフト資産の継承(1991年7月15日)

 IBM社が、汎用機の売行きの停滞のために苦境に陥っているとの記事が目につくようになった。コンピューターを神棚に置くように、恐る恐る使っていた汎用機万能の時代には、価格も、機能も、納期もすべてIBM社のいうとおりに唯唯諾諾として従ってきた。この十年ほどの間にコンピューターの機能そのものが、パソコンなどの普及とともに次第に日常の生活の場に降りてくると、偶像化されていた汎用機が、巨大な割に無能な一面を見せるようになり、代替の機種への移行を考える利用者が増え、汎用機の売行きの停滞が始まった。
 建増しを続けて迷路のようになった旅館を彷彿とさせる汎用機は、単体としては明快なワークステーションやパソコンに比して、見た目よりはるかにコストがかかる代物である。
 ただし、コストに比して効率が悪いと分かっても、長年使い続けてきた汎用機を簡単に他のシステムに移行することができないところが、コンピューターの難しいところでもある。
 技術計算の場合は、一回の処理ごとに仕事が完結し、次回の処理にデータが引き継がれることはないので比較的簡単に機種の変更が可能であるが、事務処理の場合は、常に過去のデータとの関係において処理が行われるので、機種を変更することは容易でない。やむなく旧システムとソフトウエアの互換性のある新機種に変更することになるので、旧機種時代のソフトウエアは新機種に変わつても、多少の手直しをしながらも
 ほとんどそのまま使われることが多い。機械のリプレイスや機能の追加のたび、わけの分からない部分が増えるが、ともかく使い続ける。長い間には、担当者の転勤、転職もあろうし、健康を害することもあり、開発者がいなくなることも多い。
 ソフトウエアの引き継ぎは、技術的にみて、極めて難しい。技術者の能力格差が激しく、能力の低い人から高い人への引き継ぎの場合は、過去のプログラム開発上の欠陥がやたらに目につくし、逆の場合は開発時の思想がほとんど伝わらない。開発者の開発意図が伝わらないソフトウエアは、制度の変更などに対処できなくなり、結局使い続けられなくなる。
 商用のコンピューターがわが国の実業に登場してから三十年を過ぎ、コンピューターのお守役の世代交代の時期にきて、ソフトウエア資産継承の難問に直面する企業が増えている。二十年前には集中化一辺倒であったが、ミニコンの出現以降、機能の分散化が始まり、パソコンの普及とともに本格的な分散化の時代に変わりつつある。分散化を進めながら、古いソフトウエアを廃棄し、新しいソフトウエアを作り直すことも必要であるし、従来のものを移植して使い続けることも時によっては必要になる。
 ソフトウエア資産の継承は、都市計画における再開発事業に似た難しさがある。過去に蓄積したソフトウエア資産を活用するには相応の人材が必要であり、再構築には投資が伴うという認識を、各企業や団体の上層部が持たないと、次々にスプロールができてしまい、ある日突然収拾がつかなくなる。自社だけでなく、顧客や協力企業も含めた、かつてのニューヨークの停電騒ぎに似たパニックに陥る。

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ソフト開発の王道は小人数(1991年6月14日)

 「今年は大きな予算が取れたので、懸案のソフトを一気に開発したい」という話が相変わらず後を断たない。
 建設業界は今期の決算も好調であったが、新規のマンション等の計画は既に先行きの不安を見せ始めており、二、三年先の見通しは必ずしも明るくない。
 技術の蓄積に関する投資を今のうちに行って、いずれ襲って来るであろう不況に対処しようという姿勢は、悪いことではないし、むしろ当然である。そのーつとして、大規模ソトの開発が提案され、景気の良い今のうちなら少し位金額がはっても稟議が通る。そして、とりあえず人を集め、開発に着手する。
 ソフト開発という仕事は、大勢で短期間に仕上げることは不可能なものなのでる。大勢の人を集め、一人一人に作業を分担させてプログラムのモジュールを作らせ、完全にテストされたモジュールを最後に組み込めば、大規模なソフトも短期間に開発できるではないかと、過去に多くのプロジエクトが試みられ、そのほとんどが失敗に終わっている。
 多くの機械部品を組み立てて大きなシステムを完成させる目動車や飛行機になぞらえれば、ソフト開発というものは、試作機を作るに等しい。試作機の開発段階には、ある種の閃きとその正否を検証する数々の試行錯誤が必要である。試作機の開発チームの構成は、単に頭数を揃えたり、年功序列の階層人事では成り立たない。閃きの才能と、検証のための熟練した検証の技術が必要である。
 ソフト開発のチームは、チーフプログラマー、サブそれにニ、三人のテストとマニュアル作成を兼ねる要員の構成が限度であり、それ以上の人数は、いたずらにチーム内のコミュニケーションに費やされるロスを増やすだけなのである。従って、ソフト開発の計画は、少人数が長期間にわたって携われるように立てなければ、決して成功しない。
 大勢の人が大きな部屋に並んでソフト開発に従事している姿は壮観である。そして、一人一人がせっせと書き上げたプログラムは、膨大な量になる。しかし一人一人が割り当てられた仕事を正しくプログラムしているか否かの検証を厳密に行う手法は確立していないので、およそ大丈夫という段階で、他のプログラムに連結される。全体を一体に組み込んだ後に行われるテストの結果、個々のプログラムモジュールの不具合が発見されることになるが、一つの不具合の発見に要する時間は決して短くない。結合テストの工程が遅れ始めると、まずそのプロジェクトは完成しないと思った方がよい。未完成な部品を組み合わせて、あっちをけずりこっちをついでいるうちに収拾がつかなくなるのである。
 ソフトウエアというものは、大体できている段階から完全にできたといえるまでの距離が極めて大きいものなのである。利用者は完全にできていなければ使えないので、一度に大きな未完成品を作るのでなく、利用者に使ってもらいながら少しずつ大きく育てることが必要なのである。
 短期間に大きな開発費を投じることは、あふれ始めた水槽に構わず水を注いでいるのに等しい。

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急激な情報伝達改革は危険(1991年5月16日)

 従来から、建設物の設計に関する情報は、図面と特記仕様書によって、設計者から施主、施工者、監督官庁などに伝達されていた。これらの情報媒体は、暗黙のうちに読む側が対応する建設物の設計基準や標準仕様書を熟知しているとの前提において作成されてきた。つまり、専門家から専門家への情報の伝達を主目的に作成されていたので、施主などの非専門家に対しては口頭による補促説明や、模型による形状認識の補助手段を使って、相手の理解度を補ってきた。
 近年、コンピューターの普及に伴って、建設物の設計に関する情報を磁気媒体や光学的媒体に置き換えようとする試みが積極的に行われている。これらは、情報の検索のし易さ、設計図書そのものを作成する速度を速め、コストを低減すると同時に、情報の上流から下流へのスムーズな流れを期待したものである。その背景には、最近の技術者の人手不足がある。専門家がコンピューターを駆使して設計している時には、基準や仕様を常に頭において、コンピューターにデータを打ち込み、結果をチェックするので、致命的なミスを犯す心配はほとんどないが、人手不足が深刻になるにつれて非専門家にデータ入力を任せる場合が多くなり、データミスの発見が次第に難しくなる。
 一方、設計情報を受ける施工者側も施工図の作成のシステムの導入を積極的に進めており、その普及の度合は、設計業務よりもむしろ進んでいる。最近、設計情報をなんらかの情報メディアによって、機械的に施工側のシステムに送り込む試みが盛んに行われている。これは、紙に書いた情報を受けて、新たにデータを打ち込むのと比較すれば、入力ミスを減少し得る。ただし、上流で犯したデータミスを下流で発見するなんらかの仕組みを盛り込むことを研究しないと、専門家の介在しない情報の交換が行われることになり、大変危険である。
 元来、図面に盛り込まれている情報の量は、暗黙の了解事項が多く隠されているので、見た目よりは遥かに大きい。RC構造の鉄筋の径は設計段階においては、大きさを持たない線として図化される。外周の梁を、もし柱面と同一面に揃えて仕上げようとすれば、梁の主筋は柱の主筋をかわして内側に配置されるので、柱の主筋径の寸法ぶんは外側にコンクリートの増し打ちをしなければ、納まらなくなる。施工図を書くとき、そのことを頭に置いていなければ、正しい配筋の躯体図にはならない。ほんの些細な一例であるが、専門家間のコミュニケーションであれば、念を押す必要もない当然のことであり、非専門家の場合には、必要な情報として付加しなければ、コミユニケーションが完結しない。
 ソフトウエアの開発に当たって、専門家同士の情報の交換を前提とした場合と、非専門家間のデータの受渡しを前提とした場合とでは、入力データのチェック、出カデータの精粗の度合に格段の差を生じる。現在のコンピューターの性能では完全に専門家の知識を、コンピューターに置き換えることは、とうてい不可能である。短期間に専門家に代わるシステムを構築するのではなく、少しずつ非専門家の仕事の領域を広げ、時間をかけて、専門家の知識をコンピューターに肩代りさせることを考えることが肝要である。

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ミニコンメーカーの終えん(1991年4月5日)

 つい先日、今から丁度二十年前に、ミニコン製造の専門会社として、国策に沿って設立されたN社が、O社に吸収合併されるという記事を読んだ。
 汎用コンピューター一辺倒の時代から、現代のパソコンの時代への橋渡し役として、ミニコンがコンピューターの普及に果たした役割は、計りしれない程大きかった。中でも、制御用コンピューターとして、各分野における専用コンピューターシステムの主要部品の製造に徹し、コンピューター機能の低廉化と、保守の容易性を追求し、単品生産から量産可能な商品に転化したことは、利用者に大きな利益をもたらしたといえよう。残念ながら、時代はすでにパソコンの時代に移っており、ミニコンやスーパーミニコンのもつ若干の機能的な優位性は、市販のパッケージソフトの量とソフト開発のし易さに打ち消されて、次第に市場を失ってしまった。
 もともと、応用分野の知識を必要としない、OEM主体のミニコン会社が、応用ソフトの開発も含めたシステム商品の販売に力を入れ始めた頃から、今日の苦戦は予測されたことである。本来、コンピューターに関する知識と、利用者の業務分野における知識とは、全く異質の知識である。ところが一度ソフト開発を手掛けた分野に関しては、なんとなくその分野の専門用語に馴染み、分かったような気がしてくる。コロンピューターと開発したソフトを使えば、誰でもその業務がこなせるような気がしてくる。実際はそう簡単にはことが運ばないので、次第に泥沼に足を踏み入れることになる。
 専門家の専門家たるゆえんは、異常事態に対処する能力が備わっているか否かによる。コンピューターによって業務を処理する場合にも、正しいデータを入力すれば正しい結果を出力するのは、当たり前のことで、間違ったデータの入力をしたときに、間違いをなるべく早い時期に発見できるように、システムが作られていなければ、その業界では評価を得られるようにはならない。間違いのパターンは限りない。加えて、間違いか正しいかの判断が明確になっていない問題も多いので、さらに難しい。従って、ソフト開発に当たっては、限りある資源と無限に近い間違いのパターンや業界特有の処理方法をにらみながら取捨選択を行って、その時々の最良のシステムを作り上げなければ、利用者に受け入れられるものにはならない。
 ここ数年、建築業界へのシステムの売り込みに参入し、結局敗退する企業が相次いでいる。よその芝生がきれいに見える人々が、安易に新しい設計用CADシステムや施工図CADシステムを開発して、売りにくる。そして、何セットかの販売には成功するものの、実用の段階でさまさまな問題に遭遇して、その対応に追われ、とても新規の顧客への開拓に手が回らなくなって、ついには失敗する。失敗した当人は、自業自得と諦めれば良いが、大枚をはたいてシステムを購人した利用者はたまらない。こうした被害に遭わないようにするには、見た目の華やかさや売り込み上手に惑わされずに、実際の物件を使って設計図面や施工図を描いて確かめる他はない。その手間を省いて、良いシステムを手に入れるうまい道はないと知るべきである。

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「国際単位系」にもの申す(1991年3月5日)

 国際単位系というのは、何ものなのだろうか。いったい、何が起きたというのだろう。一九九一年一月一日からJIS鋼材の呼称が変わり、力、応力の単位が突如として変えられてしまった。
 JIS鋼材の呼称の変更の問題と、力、応力の単位系の変更の問題は、根は同じであっても同一レベルの問題ではない。前者に比して後者は遙かに深刻な問題である。従って、前者は即刻実施、後者は二年間の猶予をおくという。
 それにしても、つまらぬことをするものだ。SD30をSD295と呼ばせて、破断強度の単位系をN/mm2(二ュートン・パー・スクエアミリメートル)に直したと言いたいのだろう。日本工業規格の所轄は通産省だろうから、通産省が実施を促すのは、建築の実情を知らないことだからと我慢も出来るが、建設省まで調子に乗って、構造計算書を新しい単位系に変えるように行政指導を行うことはないではないか。すでに、確認申請の受付窓口では変更を促す発言が聞かれるようになった。
 かつて、尺貫法からメートル法に変えられたときも、建築の現場は被害を被った。今回の変更は、つまらぬ間違いを増やすことになるから、構造設計家にとっては痛みが長期にわたる。長年使い慣れてきた実用単位系を何故今ごろ捨てなければならなくなったのか。このような、ばかばかしい役所の横暴に対して、構造設計技術者という専門家達は、一言のクレームすら付けられなかったのだろうか。それとも、イラクのクウェート併合と同じで、突如、しかも暴力的に「お上」の命令に従えということなのだろうか。それとも筆者の不勉強から突如と感じているだけで、実は、何年も前から議論が尽くされていたということなのだろうか。
 不思議なことに、何もまともに反対の声が上がらない。どうしたことなのだろう。既に、わが国は、「お上」の声には全く逆らわない、民主主義の国とはほど遠い国になってしまったのだろうか。筆者の耳に聞こえてくる声は、ぼやきの声だけで、既定の事実と、すっかり諦めきっている。
 何か変だ。理屈から言えば、力の単位は二ュートンの方が物理学に忠実で、運動方程式との連続性があって、明解かも知れない。しかし、実用単位というものは、いちいち重力の加速度を引きずらずに、一立方米の水は一トンのカを下向きに与えると考えていた方が扱いに便利だから、使っていたのである。そして、例えばミサイル攻撃を受けた建築物の安全性をチェックしようとするようなときに、単位系の変換をすれば、済む問題ではないか。地震によって生じる力を、運動方程式を直接扱わずに、いったん静的な横力に置換して解析する方法を編み出したからこそ、今日のように短時間に設計ができているのであって、物理学に忠実に解析していたら、設計不可能になつてしまう。
 国際問題であったとしても、わが国独特の設計技術をもとに、強く主張することが出来ないとは思えない。羊のようにおとなしいわが国民に無理を押し忖ける方が、外圧に向かって主張するより楽だと考えるのは、怠慢である。

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CADとテクノストレス(1991年2月1日)

 わが国で市販されているCADは、建築用と称されているものだけでも二百種類を越える。もっとも、汎用CADと専用CADに分類され、専用CADは設計用として意匠、設備、構造という業務別の分類、住宅用、事務所ビル用といった用途別の分類、施工用としてRC躯体図用、鉄骨工事用、建具詳細用、タイル・石工事用、仮設工事用等に分類される。その中で、これこそといえるCADは、まだ現れていない。
 汎用CADはざっと数えても四十本以上にもなり、導入を企画するとき選択に頭を悩ますことになる。実際にCADを導入して、CADによる図面を日常的に描くようになると、CADの操作者は次第に習熟し、操作の速度が導入当初とは比較にならないほど向上する。ある程度CAD操作の習熟度が進み、複雑な図面を高速に描けるようになると、CAD自体の性能の限界に達して、ある処理をコンピューターに指令する操作にかかる時間より、その処理をコンピューターが実行する時間のほうが長くかかるようになって、操作者の待ち時間が多くなる。
 機能の種類の多さを誇るCADほどこの傾向が強く、導入時にはむしろ機能比較がCAD選択の決め手になる。利用者がその事実に気が付くまでに、一年もの時間がかかるから、気が付いたときは手遅れの状態になる。操作者の待ち時間が生じた時に、そのCADの性能限界に達するわけで、それ以上の速度での作図が望めない。その限界速度が到底手書きの速度に及ばないとすると、CAD導入の意義の大半が失われるばかりか、操作者が精神的に参ってきて、折角習熟した腕を持ちながら、いずれ退職という事態を招く。
 特に、操作の上手な人が被害者になるところが、この問題の悲劇的な所である。まだ、CADを用いて本格的に作図を行っている事務所は少ないので、社会問題化しているわけではないが、CADの選択の間違いが、その後のOA化にブレーキをかけることになるので、いずれ深刻な事態が予測される。
 元々、汎用CADというものは、現在のコンピューターの性能からみて、機能的に余程低く抑えておかなければ、処理速度の限界を広げることは難しいものなのである。パソコンだから遅いということではなく、EWS、さらに、高速な専用機能を,特別に装着したCAD用の専用機を用意したところで、操作者の待ち時間が多少減ることはあっても、操作者のストレスが解消するほどには速くならない。CADの開発者や販売担当者達が、この事実を知らないことが多いのだから、厄介なのである。
 今の所、それがコンピューターの能力の限界だと考えれば、解決策としては、細分化された業務分野ごとの専用CADによって、可能な限り自動作図させ、不足の部分を汎用CADを用いて加筆修正する程度で仕上げる方法が、有効な手段であろう。そして、CAD操作の熟練者が業界の中の一つの新しい技術分野として定着すれば、作図方法を根底から改良し、それに適したCADが開発されOA化に拍車をかけることも可能になる。

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機械の進歩と人間の役割(1991年1月8日)

 スポーツの訓練では、しばしば「体で覚えろ」という言葉が使われる。頭で考えた通りにはなかなか体が動かないものである。訓練と運動神経の反応との関係については、誰もが何らかの体験を通じて、その実感を持っている。
 ここ三十年ほどの間に、体を使う仕事が次第に機械に置き換えられ、人間は機械を使うための仕組みを作る仕事に転向してきた。かつて、一台の機械に数人の人が作業していたエ場は、数台の機械を一人で操作し、しかも一台一台の機械は当時よりはるかに速い速度で製品を生産するようになってきた。かつて体で覚えた仕事は、頭を使って機械の異常などに対処する能力を要求され、作業員の養成や訓練の方法も年々変化している。最近は、ほとんどの機械に多少の差はあっても、コンピューターが組み込まれており、訓練だけでなく、作業員の才能も要求される。
 機械工場に比べて、建築は一品生産であり、屋外作業の多いこともあってか、機械化の速度は著しく遅れている。大工や左官の仕事は、根っからの職人仕事で、それこそ体で覚えなければ一人前になれない仕事である。好きでなければ出来ない仕事と言い換えてもよい。
 建築設計という仕事も一見知的な仕事に見えるが、実際には体で覚える部分がきわめて多い。最近、人手不足ということもあって、自動設計や作図用CADが急速に普及している。売り手は、システムの機能や操作性の良さを盛んにPRする。しかし、システムの導入効果が、不思議にも操作者の能力に依存するという、最も大切な事には触れてくれないので、実際にCADを導入した利用者のほとんどは、聞いていたほど楽ではないのに愕然とする。
 CADの操作は、十人に教育すると、操作の上手な順に明確なランキングが付いてしまう。上手な人は、励みもあって、操作に工夫も凝らせるし、飽きずに次々にテーマをこなしてしまう。下手な人は、嫌気がさしてくるので投げやりになってしまい、上手と下手の差は月とすっぽんになる。うまい人だけ集めて仕事をすれば、CADも結構使えるようになったと思うが、下手な人を相手に仕事をすると、自分が手で書いた方がよほど良いと感じる。
 CADの操作は、さしずめ典型的な体で覚える仕事であり、好きでなければ勤まらない仕事である。設計者が自身でCADを使った方がよいか、専門の操作者にCADを使わせた方がよいかということは、議論にもならない。人によりけりで、CADの操作の好きな設計者は、自分で操作をすれば、手書きの設計に比してはるかに大量の情報が蓄積される。優秀なCADの操作者を使えば、設計の効率は飛躍的に向上する。コンピューター自体の能力は、その段階まで進歩しているので、後は、体で覚えるまで辛抱できるかどうかが問題なのである。他人の経験はほとんど役に立たない。他人の経験談が役に立つのは、その人と同じ程度の修行を積んだときであろう。それは、コンピューターだけの問題ではなく、あらゆる仕事に共通する原理であり、機械化の進んだ社会において、人が何をなすべきかという問題でもある。

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