1988年 1月−11月

オープンアーキテクチャー(1988年11月8日)

 ここ十年ほどコンピューターの機能に関しては、ほとんど進歩が止まってしまったように思える。その一方で、大量生産のための技術革新は一段と進み、ハードウエアの価格が急速に低下した。それに伴い、利用者層の底辺が広がり、新しいコンピューターの利用法が次々に考案されており、利用者側の主導による変革期がやってきた。コンピューターは次第に電話機並に、各人の机に一台ずつ置かれるほどに増え、使われていないコンピューターがあっても、気にならなくなった。むしろ、使いたい時にいつでも使えるためには、空いているコンピューターが何台も必要なのである。従来、コンピューターをいかに効率よく利用するかという観点から利用法が考えられてきたが、これからは、人が効率よく仕事をするためにコンピューターを活用するという考え方に変わってくる。
 当然ソフトウエア開発に対する要求にも大きな変化が生じている。安価に購入出来るようになったコンピューターは、次第に日常業務の必需品として利用され、人手による処理に比して、安価に仕事が消化されなければ意味がない。ソフトウエア開発の対象は、開発費用も含めたシステム全体のコストを問題とし、比較して採算が採れるか否かによって、是非を決定する場合が多くなり、勢い、開発費に対する厳しい要求も増えている。既製のソフトウエアの利用も活発で、市販のパッケージソフトと、オーダーメイドのソフトウエアとの混用も積極的に検討する企業が増えている。さらに、その方法を採り易くするために、パッケージソフトをオープンアーキテクチャーとするものが歓迎され、流行の兆しを見せている。自社特有の処理を行えるソフトウエアを、安価に作り上げるためには、有力な方法である。
 従来人手に頼っていた仕事をコンピューター処理に置きかえる時、しばしば利用者とソフトウエア開発者との間で、思わぬトラブルが生じる。処理の限界に関する見解の相違は、利用者と開発者の間に必ずといってよいほど存在するからである。相互のコミュニケーションの不足もその原因であるが、もともと利用者と開発者の知識の背景が異なるので、相互に相手の立場に対する理解を深めるために、何等かの道具が必要なのであろう。その道具のーつとして既製のパッケージを用い、その動作によって開発者に利用者側の要求事項をより深く理解させる。オープンアーキテクチャーのパッケージの前後処理によって、パッケージソフトの機能上の不足を補えれば、開発費も開発期間も大幅に削減することができる。何時のころからかソフトウエアの価値を、その開発にかかった人月でおし量る習慣が、わが国にも蔓延した。しかし、担当する技術者の能力に大きく左右されるソフトウエア開発に、この見積り方式は適当ではない。もし、誰かしかるべき第三者の手によって、当初目論んだソフトウエアが本当にそのようにできあがっているか否かを検証したとすれば、消化した頭数と出来上がったソフトウエアとの間のギャップの大きさにがく然とするはずである。
 既製のソフトウエアと注文品の相互の欠陥を補い合うオープンアーキテクチャーのソフトウエアの活用は、今後益々増える需要と不足するソフトウエア技術者に対する有力な方法である。

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人材不足、嘆く前に活用を(1988年10月7日)

 昨年、今年と技術系の新卒者の不足が甚だしい。特に、技術系の企業に対する、新卒者の希望が少なく、各社とも求人の担当者はその対策に頭を痛めているといわれている。確かに事実はその通りであろうが、企業が本当に必要に迫られて、新卒の募集を行っているのかどうか疑問に思える。社内の技術者のもつ技術を正しく評価せずに、単に今年は何人採りたいというだけの頭数を合わせるような求人の仕方をした結果が招いたものではないだろうか。既存の技術者の活用にもっと力を入れれば、人材不足を嘆かずに済むと思う。
 技術者の人事の問題は、各社とも重要なテーマであると思うが、具体的な方法となると、長年の間未解決のまま推移している。技術系新卒者の求人難の原因のーつが、各社の技術者の処遇にあることに、気づいていないのではないかと思う。
 近年、あらゆる分野の技術が急速に進歩し、進歩するにしたがって個人のカバーする技術の領域は、細分化されて行く。細分化された技術領域の中で、深く掘り下げた知識と経験は、壷にはまった時には驚くほどの威力を発揮するが、壷を外したときには、たとえすぐ隣にありそうに思える問題であっても、全く無力であるということがまま生じる。門外の人間からみれば、きわめて不可思議に思うこうした現象は、当事者たちにとっては、極めて当然なのである。
 わが国における、終身雇用制度は、諸外国から高く評価されているという話であるが、高度な技術を有する技術者に限定した場合、必ずしも良いとは思われない。その理由の第一に、企業は、一つのテーマをいつまでも追い続けるわけには行かないという事情が挙げられる。製鉄会社がセラミックスに取り組んだり、プラントエンジニアリング会社が病院建築を手掛けたりする企業の多角化や転身は、企業生命をかけて、屡々行われる。かつての市場が諸般の情勢の変化で狭められたとき、トップレベルにある技術者の知識を複数の企業で保有して利用することが出来れば、企業も、技術者も都合がよい。第二に、技術を磨くことにより、企業内における立身出世を望む気持ちが強くなり、浅く広い半端な知識の技術者が増えてしまう。深い知識を持とうとする意欲をそいでしまうような人事の制度が、高度な技術者の数を減らしている。
 高度化された技術を持つ技術者は、孤高である。皆で手を取り合って研究を始めても、十年もすれば周りの人影は、疎らになる。そのような技術者が力を発揮する場を、十年も前に、新卒で入社した企業が豊富に持っているとは考えにくい。長年の間に、個人の技術的興味と企業の目的とが、合致しなくなって当然である。その時、技術者自身は、もっと広い仕事の場を求めて独立したり、企業目的の合致した企業に移籍することが、普通に行われる方がよいと思う。
 その実現のために、高度な技術を持つ技術者と、その技術を求める企業を結ぶ情報網を整備する必要があるし、技術者に対する報酬をしっかり支払う習慣も定着させなけれぱならない。その技術者の働いた時間に対してでなく、その技術に巡り会えなかったときに、受けたであろう損失に対して評価したり、その技術者のアドバイスによって得た利益に対して報酬を支払う習慣が必要である。

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ボイスメールの活用を(1988年8月31日)

 いつの間にが、電話は生活の必需品になった。以前は、電話の申し込みをしてもなかなか引いてもらえない一種の贅沢品であった。近所の、電話の引いてある家から呼び出してもらったり、緊急の連絡は、郵便局に走って、電報を打ったりしたのは、つい二十年程前のことであった。今、普通の生活をしている人で、電話を持たない人はいない。
 電話は、単に話をするためだけでなく、FAXやパソコン通信等のように文字や図を送るにも盛んに用いられている。情報化社会における電話の役割は、計り知れないほど大きい。反面、電話を使った商品相場、ゴルフの会員権やリゾートホテルなどの勧誘は、迷惑この上ない。夜間にかかるいたずら電話も電話の弊害である。取り押さえることの出来ないこれらの電話を利用した犯罪を防ぐ手段がないとは何とも歯がゆい。
 電話をかけたとき、相手が話中で、折り返し電話をもらうように頼んだところが今度はこちらが話中でなかなか話が出来なかった経験は、頻繁におきる。相手が不在で、伝言を頼んだところが、通じてなかったり、意味が違って伝わったりした経験も多い。
 ボイスメールという電話とコンピューターを利用した通信の手段がある。米国で開発されたこのシステムは、電話の声をデジタル化して、コンピューターのメモリーに格納し、これを呼び出して再び音声に変えると、電話の声に戻る装置である。個人用に割り当てられたメモリー(ボツクスと呼ぶ)には、その人宛にかかった電話を全て格納する。手がすいたときに何時でもその声を聞くことが出来る。返事は相手のボックスに格納される。ボイスメールは、忙しい相手の仕事を妨げない。会議中であっても、接客中であっても、こちらの用件を一方的に話しておけば、先方の都合の良いときに聞いてもらえる。返事はこちらの都合の良いときにボックスを開いて開けばよい。会話は、間接的であるが、互いに相手の仕事を邪魔する事なく、用件は確実に相手に伝達できる。
 情報化が進むと、一日のうちに効率の良い情報の伝達がどれほど行えるかによって、仕事の成否が左右される。といって、先方の都合も考えずに、こちらの都合だけで相手の時間を邪魔しては、相手はいらいらして、結局情報の伝達が出来ないことになる。ボイスメールは、極めて控え目な通信手段である。相手がボックスを開かなければこちらの意思は伝わらない。その点が唯一の弱点であるが、話中が無いこと、第三者にメツセージの転送が可能なことも一斉に必要な多数の相手に送信が可能なことなど、通常の電話にはない利点も多い。コンピューターと電話の直接の組合せによる一種の二ューメディアであるから、利用者が増えれば新しい利用法が生まれる。
 少なくとも、電話の暴力的な、有無を言わせずに相手の時間を奪い取るようなコミュニケーションに比べて、はるかに穏やかな通信手段であり、限られた時間を有効に使う一つの手段である。来国では、時差を気にせずに電話連絡が出来るということもメリツトのーつとされている。外出がちの建設現場の各職方との連絡にはかなり有効な手段ではないだろうか。

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コンピューターの信頼性(1988年8月3日)

 コンピューターは極めて多種類のしかも大量な部品から成り立っているシステム商品である。近年、とくにパソコンが普及してから、あまりにもコンパクトに、また安価になった為に、巨大なシステムであることをつい忘れがちになる。
 三十年ほど前のコンピューターは部品の単位が真空管一本、抵抗一個、コンデンサー一個であったから、コンピューターの回路を組み上げるために建物の壁そのものを利用しなければ、その重量を支え切れないほどであった。コンピューターを操作するために、人間がコンピューターの中に入って仕事をするわけで、電源を入れてから使い始めるまでに一時間もかけなければならなかった。しかも、一時間も使うと部品の
 どれかの寿命がきてしまうわけだから、使い始める前には、よほど慎重に準備を整える必要があり、計算が支障なく終了したかどうかを常にチェックしながら結果を利用しなければならなかった。
 真空管がトランジスタに変わり、さらにICのLSI化が進み、配線もプリント板から多層プリント板へと素子の集積度は見違えるほど向上した。かつてのコンピューターに比して素子一個当たりの信頼性は三桁も四桁も向上したが、その一方で機能の拡張とともに使用する部品点数は飛躍的に増えており、全体としての信頼性をさらに向上させることはなかなか難しい状態に至っている。日常使用しているコンピューターは、ある程度の信頼性が確保されているので、ついコンピューターの出力を鵜呑みにしがちであるが、元を正せば極めて不安定なものの組合わせであり、常に、結果の真偽を各業務の専門的な目をもってチェックする気持ちを忘れてはならないものなのである。
 建築業界には早くからコンピューターが導入されさまざまな業務に利用されてきた。コンピューターに馴れ、個別の業務に支障なく利用できるようになると、次には前後の業務に共通するデータをなるべく重複して入力しないで済むように考える。これは当然の帰結で、入カデータのミスが、出力表や、蓄積されたデータファイルに及ぼす影響の大きさに閉口した経験を積むにしたがって、入カデータの量を減少させることがシステム全体の信頼性の確保にとって大切であることが分かってくる。その限りにおいては、人間の仕事の信頼性は到底機械に及ばない。コンピューターヘの入力作業は、極めて機械的作業で、人間の最も得意とする判断能力をほとんど必要としないからである。
 コンピューターを中心とするトータルシステムという概念と、そのようなシステムに対する期待感は、コンピューターの利用年数とともに高まってくる。そしていつしか、一貫処理システムの開発に取組み全部署、場合によっては全社を挙げてトータルシステムの導入を図るに至る。
 現段階のコンピューターは、そのような大がかりなシステムを構築するには信頼性が不十分である。システム構築に取り粗んでいるという話は方々で耳にするが、完成して実用に供しているというケースは極めて少ない。まして、採算性を考慮すれば、巨大なシステムを構築し、運用に成功した例は皆無である。

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技術は積み重ね、金では(1988年7月5日)

 パソコンの普及につれて、建築の業界にもCADシステムが、次第によく売れ始めてきた。ところが、CADは買ったものの、ほとんど使わないか、もしくは使えない利用者が九割に近いといわれている。
 CADシステムにもいろいろな種類があり、建築設計に必要な図形のモジュールを、予め用意して、ディジタイザーのメニューから指定すれば、描きたい図形要素を立ちどころに描くことが出来たり、RC構造の柱と壁の取合う断面部は、柱の線を自動的に消す機能があって、断面が楽に描けるものもある。CADシステムの出始めのころから見れば、建築図面を描くに必要な機能が至れり尽くせりに豊富に備わっている。それらを駆使して作図を行えば、手書きに優る速度の作画が可能になる。
 CADシステムの販売者は、デモンストレーションの会場で見事な図面を描いて見せてくれる。見ているうちに、今すぐにでもそのCADシステムを導入しないと、時代に遅れてしまうのではないかと思う焦燥感にかられてくる。
 今のところ仕事も忙しいし、今なら買っても元はすぐとれそうだと導入を決意し、リースの契約を依頼する。リース会社の調査期間が、意外なほどに長く感じられる。待ちどおしい思いをしながら手書きの図面を描いていると、仕事が今一つ捗らない。ようやく、待望のCADシステムが到着し、はやる気持ちを抑えながら梱包を解き、設置する。電源を入れ、機械の前に座り、とりあえず縦横に直線を引いてみる。その辺まではCADシステムの種類にほとんど無開係で、多少はマニュアルを開いて操作方法の確認をしたとしても、おおむね予想したような図が描ける。
 さて、その次に予定していた平面図を猫こうとして、はたと手が止まる。同じ直線でも、必要な位置に、必要な長さの直線を引くのは、意外に手間が掛かる。さらに、いままで何気なく書いていた平面図には、想像以上の数多い直線が書かれていたことを改めて知る。そして、一枚の図面を描きあげるまでの時間を思うと、げんなりしてしまう。次第に、一枚目は練習だからという気持ちが心の隅に巣くい、いつしか雑な図面になる。最後は書きかけのまま放り出してしまう。今は忙しいから、今回は手で書いてしまおうという結論を出して何かほっとした気持ちになる。
 大道で香具師の口上に乗せられて買ったガラス切りとどこか似ている。コツをのみこむまで訓練しなければ、人様の前で芸を見せられるものではない。CADの場合はもっと複雑で、時間をかけて訓練をしなければ、手書きの半分の速度にもならない。市販のCADシステムを使いこなすには、利用者が個々に利用法を研究し、ようやくCAD導入の効果が発揮される。
 すでに手描きの図面に比してもはるかに効率よく作図を行っている事務所もある。しかし、その事務所がCADを導入してから現在の効率を上げるようになるまでに費やした努力と、研究費の投資は並み大抵のものではなかったはずである。数多くの試行錯誤を重ねた末に現在の域に達したということを見逃してはいけない。技術は、積み重ねるものである。技術を金で買うという気持ちでは、CAD屋を喜ばせるだけである。

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学会規準とセンター指針(1988年6月2日)

 かつて、建築の構造設計者の技術的拠り所として、事あるごとに相談したり、意見を伺いに出向いていた大学が、最近、何となく頼りなく感じるようになってきた。純粋に学問的な見地からの意見を期待しても、政治的配慮の見え隠れする答が多く、期待を裏切られることがしばしば生じるのは何故なのだろうか。行政官と学者の力関係が、若干前者に偏ってきたせいか、どうも学問の権威が行政の都合に左右されているように感じられる。
 日本建築学界発行の計算規準類は、以前に比して数が増え、一冊の頁数も増えて分厚くなったが、それだけで足りるほどの権威が薄れている。日本建築センターの指針類が次第にこれに取って変わる気配を見せており、今のところ書店には両者桔抗の形で規準と指針が並んでいる。その編集に当たって、どちらにも顔を出している委員もおり、どのような意図で委員に名を連ねているのか、もう一度チェックする必要があると思う。それほど深い考えもなく、請われるままに顔を出しているのだろうが、似たような内容の書物を読まされる実務家の立場はたまったものではない。
 ちょうど二年前の日経アーキテクチュアに、原器建物研究会の記事が載っていたが、一つのモデルを何本かの評定済みプログラムで走らせて、その結果を比較したところ、大きなパラツキが出たという記事であつた。設計というものは、必ずしも結果が一つである必要はない。しかし、何故バラツキ画が生じるかは、学問的に研究するべきで、これこそ学会が研究するべきテーマの一つではないかと思う。建築センターのわずかな助成金で、単に研究をしていますという証拠を残す程度のリポートでお茶を濁すなら、初めから手を付けない方が良い。そもそも、原器は開発したプログラムを開発者自身が最低必要な項目のチェックを行うために、標準的なモデルと結果の出力を用意して欲しいという、開発者側からの要求が起点であったはずである。プログラムの正しさを第三者が立証することは、現実には不可能である。プログラム評定制度は利用者にある種の錯覚を与えるので、大変危険な制度である。いくつかの例題を試して、その結果に間違いのないことを確めることは比較的容易であるが、それはたまたまその道筋の論理が正しかったというだけのことに過ぎない。第三者によるお墨付きよりも、開発者自身がチェックするためのモデルを用意するほうが遥かに信頼性の高いプコグラムを提供することができる。建築の構造設計の流れを追って、各段階ごとに最適な例題を選び、その正解を用意することは、適切な例題を選び得る学識と正解を出すための労力が必要である。単に委員会に顔を出してその場の思い付きの話をする程度のことでは到底仕上げることのできない仕事である。
 学会の計算規準が今日の姿に至る歴史的な過程には種々のいきさつがあったと思うが、現在はすでに学会が巷を啓蒙する時期ではなく、業界の苦しみをいかに解決するかという観点から、センターの指針をチェックする立場で、実務家にとって真に必要な資料の提供をもっと真剣に考えて欲しい。

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市販プログラムの信頼性(1988年5月23日)

 パソコンの普及とともに、市販のプログラム・パッケージが数多く流通している。プログラム開発に興味を持つ構造技術者も多い。パソコンのBASIC言語は、構造技術者にとって極めて都合の良いプログラム言語といえる。パソコンの出現以前のコンピューターは、所詮は開発途上の試作機であり、構造技術者にとって技術的に関係のない、単に煩わしいだけの利用上の手続きや制約条項を勉強した上でなければ、触れることの出来ない代物であった。
 パソコンとBASIC言語は、一挙にコンピューターを構造技術の世界に近づけてくれた。今では、構造事務所のほとんどにパソコンが設置され、電卓と同じ程度の道具として日常的に利用されている。お陰で、構造計算書や構造図を作製する時間は、大幅に短縮された。残りの時間を使って最適設計へのアプローチを行ったり、もう一段安全性を高めるなど、以前から、時間さえあればやって見たいと思っていた構造技術者としての本来の仕事が出来る環境が整ったといえよう。
 ところで、毎日のように利用している市販のパッケージ・プログラムに、ある日突然、どうも結果がおかしいのではないか?と感じた経験を持つ人が意外に多い。沢山の利用者に、毎日のように使われながら何で今ごろ、と思うようなプログラムの間違いに出会うことは、不思議ではあるが、現実にしばしば生じる現象である。
 プログラム開発というものは、常にそうした危険を抱えながら、見付けたバグを丹念に消して、次第に信頼性の高いものに育てるものなのである。そこに市販のプログラムの値打ちがあるわけで、プログラムが作れたからといって、直ちに信頼性の高いものにはならない。
 利用者は、常にプログラムに対して批判的な気持ちを持ち続ける必要があるわけでこのことは、たとえ建築センターのプログラム評定済みであっても変わるものではない。プログラムのチェックの好拙や、権威のお墨付きの有無には、全く関係の無いことなのである。かつて、手計算時代に、計算書や図面のミスを何とか見付け出そうと、過去の経験に照らして、数値を眺めたり、時には、計算尺や電卓を取出して当たった姿勢を、コンピューターを使ったからといって変えてはいけないのである。構造技術に堪能な技術者の値打ちは、コンピューターの普及につれて益々高くなるわけで、一部の心無い人々が言うように、コンピューターに取って変わられるようなものではない。
 一方、ソフトウェアの開発というものは、そういう宿命を背負っているものなのであって、バグが出たからといって、開発者の程度が悪い訳ではない。指摘されたミスを着実に修正して、少しずつでも信頼性を高める努力を続ける開発者は貴重である。自分の技量に自信を持ち過ぎて、ミスを指摘されてとぽけたり、頑張ってへ理屈をこねたりする開発者は、むしろ、程度が悪いというべきものなのである。

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コンピューターへの誤解(1988年3月3日)

 コンピューターに対する過度な期待から、ハードウエアやソフトウエアの開発に多額の投資をし、結局、実用にならないまま埋もれてまったシステムの例は依然として後を絶たたない。
 パソコンを購入し、市販のパッケージを買い入れ、計算をさせてみたらば、思っていたより遥かに簡単にコンピューターが使えた経験を持つ人はこの二、三年急速に増えてきた。特に、構造設計の分野においては、任意形状の平面骨組みを対象とした変形法による応力解析を始めとして、数々の傑作がパッケージとして市販されており、その恩恵に浴している構造家は多い。半面、市販のパッケージが、自分の感覚と合わないという場合いにも多々遭遇する。ある程度コンピューターに馴染み、コンピューターの能力を設計の実務に日常的に取り入れる頃になると、パソコンの遅さが気になってくる。一貫設計や立体架構の解析用のソフトを動かすと、モデルによっては、数時間で終わらないこともしばしば生ずる。そのような時、パソコンでなくミニコンや高機能のワークステーションならたちどころに終わるのではないかと考える。至極当然である。パソコンと全く同じソフトウエアがそのままそれらのコンピューター上で使えるのならその通りである。半分かそれ以下、場合によっては一割程度の時間で演算を終了させることができる。しかし、実際にはそれらのコンピューターを使うためには別途ソフトウエアの開発を行わなければならない。その費用はパソコン用のパッケージの二桁以上もかかると見なければならない。しかも、パソコンに比べて、ソフトウエア開発のしにくい機械というハンデも背負っている。
 市販のソフトウエアパツケージを使っていると、使い勝手や機能の面で、色々な要求事項が生ずる。ところがこれらの要求事項を開発会社や販売会社に話しても、思うようには対応してもらえない。いっそのこと自社で開発をすれば気に入ったソフトを使えるのではないかと思う。予算を立て、社内の同意を得て開発に取りかかり、予定の期間を経てほぼ思っていたソフトが出き上がる。そして使いはじめる。他の人にも勧め、なかなか良いと褒められる。
 ところがソフトウエアにとっては、その時が実際のスタートで、その後に保守や改良、開発時に気のつかなかった機能の追加を行わなければ、次第に他人は使わなくなる。このことを当初から予定しておかないと、開発が終了した後に、思いがけない出費が重なる。
 ソフトウエア開発というものは、それが普通であり、開発に要した費用の三割程度の予算を毎年計上して、ようやく、実用になるソフトウエアに成長する。それだけの覚悟でソフトウエア開発に取り組むなら、自前のソフトウエアを望むのも良いが、そうでなければ多少の不便は我慢して、市販のパツケージを工夫しながら利用したほうが良い。
 安易な気持ちで自前のパッケージを持ちたがるのは、子供が玩具を欲しがるようなもので、高価な玩具を買って与えても、たちまち飽きて見向きもしなくなる。コンピューターの周辺には、そのような事例が多い。

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構造設計用システム(1988年2月2日)

 ー九八四、八五年の建設業界の不況は、建設業各社に業務合理化の行動を起こさせ、その結果、設計部門の極端な人員縮小をもたらした。特に構造部門に対する人員縮小のプレッシャーは相当に強く、各社とも二分のーから三分の一に人員が削減された。その後に今日の好況を迎えて仕事が倍増し、従来、複数の人がチームを組み、一物件の設計に当たっていた構造設計チームは、一人が数件の物件を抱え込むことになり、いきおい外注組織に頼らざるを得ない状況が生じている。現状では構造設計チームは設計チームというよりもむしろ、技術をもつ設計商社とも言うべき状態が続いており、設計の採算性は向上しているものの、建設業における設計部門の意義、次世代の要員の養成という面から見ると極めて大きな問題を抱え始めている。
 高度成長期においては強大な資金力と毎年の大きな成長率とに支えられ、設計チームも年々人員増を続け、オイルショツク時のピークを迎えた。オイルショツク以降、安定成長期に入り人員増よりもむしろ機械化によるコスト削減の方向に向かいはじめ、不況期の乗り切りを策するようになった。
 設計部全体としては企画設計に力を入れ、実施設計はすべて外注というパターンが、大手をはじめ中規模建設業の間に定着し始めている。企画設計において構造技術者はほとんど関与しない。構造技術者が関与しはじめる時期は実施設計に入ってからということがー般的であり、しかも実施設計は外注というパターンから構造技術者の役割はほとんど商社機能でしかなく、せいぜい外注の納期管理をするに過ぎない。このような実態に対し、中間管理層は大きな危機感を抱き始めている。各社設計部門の地盤低下の一方、研究部門に有能な新人が数多く配置されており、新工法の開発、新分野への進出への意欲が旺盛である。構造設計部門は特に実作業の消化部隊として位置付けられ、事実、設計作業の効率化による採算性の追求をノルマの達成とともに義務づけして将来の明るい希望をもたせる部署ではなくなっている。
 中間管理者層の抱く構造設計部門の危機感は、今のところ上層部に理解されていないようである。
 人員削減分をコンピューターで補うべしと、CADや新システムの導入を計る企業が多い。コンピューターメーカーの提案する大規模システムによって、現在の問題点のすべてが解決するかのような錯覚を抱く企業が今も後を絶たないが、ハードウェアを導入し、ソフトウェアを開発しただけでは問題点の解決にはならないという過去の失敗の轍を再び踏み始めている。結局、技術の問題をカネで解決しようとする姿勢が続く限り、コンピューター会社の良い顧客であり続けることになる。システム完成時点で自らがシステムの一部として何をしているのか、どのように役に立つ仕事をしているかという想像がなく、外注企業の人々をアゴで使う立場のみを考えていて良いほど、コンピューターは能力が高くない。コンピューターは、所謂、人の仕事の手助けをする道具に過ぎないということを忘れずに、建設業に必要な設計システムの構築を目指してほしい。

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業と芸の相克(1988年1月12日)

 建築の構造設計家は、皆忙しい。忙しい割に台所は厳しい。作業の効率を上げるために従来よりさらにコンピューター処理の比率を高める。事務所に一、二台のパソコンを導入していた所は、一人に一台ずつ必要になる。最近では、構造計算用のデータディスクに、部材芯の寄り寸法を追加すると、床伏図、軸組図、リスト、詳細図などを自動図化するソフトウエアが市販されている。パソコンで利用できるプロツターの価格が百万円を切るようになり、これらの設備自体を購入することは小規模の事務所でも問題はない。ところが、コンピューターの機器類は、予想外に場所をとる。事務所を借り増すのは、今の東京では一大事である。コンピューターの設備に比して一桁大きい資金が必要になるからである。事務所を拡大して経費が増え、その稼ぎに追われる。
 じっくりと時間をかけて構造計画を練り、意匠設計者の設計思想を生かす最適な構造設計の追究に命を賭ける構造技術者は、めっきり減つてしまった。「もう時代が変わった」と言ってしまったのでは身も蓋もない。本当に良いものは職人気質の技術者が、精魂を込めて仕事をした時に生まれる。「一時間仕事をしたらいくらの稼ぎになる」かなどということを考えながら仕事をしたのでは、良い仕事ができるものではない。
 かつて、工業製品を効率良く生産するためのさまざまな技法が研究されたことがある。高度成長期にもてはやされたこれらの技法は、人の能力差をいかにして生産量や品質に影響させないようにするかということで、せんじ詰めれば人の仕事を単純化することに、帰着する。近年、これらの技法が建築の業界にも遅れ馳せながら入り込み、建築固有の技術を備えた技術者を駆逐し始めてきた。あるレベル以下の人をうまく便うことは、事業的にみても、社会的に見ても立派なことである。しかし、さまざまの分野において、水準以上の力をもつ人にとってはマイナス面が大きい。
 簡単な仕事をことさら難しくする必要はない。しかし、人がじっくりと腰を落ち着けて仕事に取り組むことが悪いことでもしているような気分にさせる風潮は、建築の設計という仕事にとっては極めて危険である。設計図書がコンピューターによって機械的に生産される。設計というプロセスを踏むことなく、設計用のプログラムの入力ルールだけを教え、機械的に高速にキーを叩けるように訓練された特殊技能者の手によって作り出された設計図書は、もはや内容をチェックすることが、ほとんど不可能になる。一日か二日で生産された設計図書のチェックに一週間も十日もかかることになるからである。
 コンピューターの出現以前には、構造計算に手間がかかり過ぎていた。設計者が抱いているイメージの確認に時間がかかり、種々のケースの検討ができないといういらだちを感じていた。今、その問題はコンピューターによって解決したが、稼ぎのために設計期間を値切られることになり、業の存立のために芸が犠牲にされることになった。今にして、芸の価値を見直さなければ永遠に芸は失われてしまう。

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